阿弥陀仏に救われた人には人生の目的がある | 幸せのこころとかたち上田祥広のブログ

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人はどうしたら幸せになれるか。なぜ苦しまなければならないのか。お金や地位や名誉をどれだけ手に入れたかを問題にするよりも、自分がどうしたら幸せになれるかを問題にして生きてみませんか。

よく人生の目的とは阿弥陀仏に救われて信楽になることだという人がいます。

これを聞くと信楽になりさえすれば、もう何もしなくていいと思う人がいます。

でも、実際は信楽とは、至心信楽のことです。信楽になるとは、阿弥陀仏から大慈悲の心を頂くことであり、頂いた大慈悲のように自分も生きてゆきたいと思うことです。

だから、いつも自分の中に大慈悲の心が見えていて、仏様だったらこう思うということが見えるのです。

そうすると、普通は仏様はこう思うけど、私にはできないとなります。自分はただの人間だから、仏様のようにはとてもできないとなるのです。

しかし、同時に頂いた大慈悲の心で、他の人たちにも幸せになって欲しいと思うようになります。

そして、他人を幸せにするには、自分が大慈悲のように行動するしかないと段々と知らされます。

ここで葛藤が起きます。自分はただの人間であり、仏ではない。でも、阿弥陀仏に救われているのは私だけ。

じゃあ、みんなも阿弥陀仏に救われたらいいんだと、普通は阿弥陀仏に救われることを勧めてゆきます。

でも、これは逃げです。本当にやらなければならない道から逃げているのです。

みんなを幸せにするのは、阿弥陀仏の救いを勧めることではありません。自分が頂いた大慈悲の心のように動き、見ている人に仏様とはこのような心なんだということを体を持って示すことです。

これは言うは易し、行うは難し。まさに絶望への挑戦なのです。

信楽になったら、もう完成なんだと求める必要なんてないんだと安心しているどころではないのです。

信楽になるとは、まさに自分が仏になるという不可能な道を進んでゆかなければならないのです。

まさに信楽になった時が仏になるという本当の人生の目的をスタートした時。そして、みんなを幸せにする為に逃げることができない道をただ一人進んでゆかなけれぱならないのです。

みんな阿弥陀仏に救われることが人生の目的だと言います。

でも、現実には救われる人はほとんどいません。その救われた人にはやらなけれぱならない道があるのです。

それは誰もやろうとしない道であり、阿弥陀仏に救われた人も煩悩はどうにもならないのだと逃げてしまう道なのです。

でも、救われた人が逃げてしまったら、誰も救われる人はいません。

この人生をかけてやらなければならないことがある。それが阿弥陀仏に救われた人が進まなければならない道であり、誰も進まない道なのです。