誰もが悔いのない生き方をしたいと願っています。
でも、多くの人は我を崩さない為に生きているだけで、本当の自分を見せないように生きています。
そして、これでは私の人生ではないと思って、ありのままの自分を隠さずに出してゆこうと思ったとしても、今度はありのままの自分が我となって、その我を崩さないように生きるだけです。
その証拠にありのままの自分で生きてゆきたいと思って出しても、それを否定されると腹を立てたり、そんな人とは付き合いたくないと言って切ってしまいます。
結局、私たちは我が自分だと思って、その自分に価値を置いて上だと思って生きているので、下にされると我を保つことができず、我以外の自分がないので、何も無い自分が見えて、我を守ろうとして怒りを起こすのです。
真実から言ったならば、自分に本当の自分を隠す我があったからと言って、我を否定することはせず、本当の自分があることを伝えてゆきます。
その時、これが本当の自分だから認めてくれと上から目線で見せるのではなく、すみません、すみません、こんな自分があることを下から認めてもらおうとします。
我から見たら、我は上で本当の自分は下。それを上にしようとはせず、下は下のまま、認めてもらう。
みんなが思っている自分は本当の自分ではありません。私にはこんなこころがありますと、頭を下げながら、醜い自分を見せてゆく。
自分の中にある本当の自分をこれが正しいのだと正当化することはせず、下は下のまま、すみませんと伝えてゆく。
本当の自分は下のままでいい、悪くてもいい。こんな自分があることはしようがないことだから。
そうやって、みんなの前で見せる我と自分の中にある本当の自分。この二つの自分があることを許してゆく。
どちらか一つにするのではない。我も本当の自分も両方自分。
そうやって二つの自分め生きてゆくのが仏法なのです。