末法五濁の有情の 行・証かなはぬときなれば 釈迦の遺法ことごとく 竜宮にいりたまひにき
末法五濁の時期の人たちは、智慧のある人がいない為に、どんなに聖道仏教の修行に励んだとしても、正しい修行ができないから、悟りを開くことができない。だから、お釈迦様の遺された教えがあったとしても、これらは皆竜宮へと入ってしまい、この世にないと同じである。
仏教の教えがあっても、智慧のある人がなければ、教えを正しく理解することはできない。だから、私たちは仏教の教えを実践しようと思ったならば、どうしても智慧を持たれた善知識が必要なのである。たからこそ、智慧を持たれた善知識を生み出す阿弥陀仏の本願の救いは私たちが悟りを開くために必要なのである。