念仏とは何か?
念仏とは、心で仏を念ずること。でも、仏を念ずると言っても、私たちはどんな時に仏を念ずるのか。それは仏教の教えを信じ、心から善に励もうと思っても、心では、醜い心、汚い心が吹き上がる。こんな時に、こんな心が吹き上がるから止めてしまおうと思うのではなく、仏様ならば、こんな時でも、心から相手の為にやることができるのだろうなあと思うこと。これが念仏。
念仏をすることで、自分はお粗末だなあと受け止めることができる。仏を念じなければ、私たちは自分のことをダメな人間のように見てしまい、自分を責める。そして、責めたくないから、自分の中で言い訳して、自分は悪くないのだと正当化してゆく。
仏を念ずるからこそ、悪を悪だと否定せず受け止めることができる。こんな時、仏様なら、きっとこのようにされるだろう。素晴らしいな、尊いな。でも、自分は形はできても、心は醜い心が吹き上がる。でも、そんな悪い心が無くならない私はただの人間なんだ。
できない人間はダメな人間ではない。醜い心が吹き上がるからと言って、否定されるような存在ではない。みんな仏様の前では、ただの人間なんだ。
だから、どんな悪い人間も、どんな善良な人も仏様と比べたならば、ウジ虫、毛虫と同じ。そこに優劣はつけられない。みんな凡夫。お粗末な存在なんだ。どんな悪い人間も、私と変わらない人間。正しい所に立って責めることができる人は、誰もいない。
それが仏を念ずるということ。仏を念ずるとは、己の悪が見せられる。自分というものが、如何に心では醜い心、汚い心が起きるものか知らされる。それを悪と見て、そのまま受け止める。
ああ、自分はお粗末な人間だな、悲しいな。でも、これが人間の姿なんだと、そのまま受け入れる。悪を否定することなく、悪を悪と認めて、受け止める。それが念仏。そして、受け止めるからこそ、こんな時、仏様なら、醜い心も汚い心も起こさないのだなと思う。思って、いやあ、仏様って素晴らしいなと、心から敬う。敬うからこそ、少しでも仏様のようになりたいと、善に励むようになる。念仏とは善に励む心を生み出し、それがまた己の悪を照らし出す。そして、また、念仏となる。
念仏が善を生み出し、善が念仏を生み出す。そして、一日一日と仏へと近づいてゆく。
念仏は尊い。念仏の教えが浄土真宗。この念仏の教えを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思わずにはおれません。