生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける
私たちは迷いが深く、罪悪が罪悪だと分からず、悪を善だと思い、造り続けている。その為、不安や苦しみから離れることができず、いつも黒い自分にならないように白い自分でいようとしている。人は、悪を責めるから、悪人にならないように自分を善人という所に立って生きている。そして、自分は善人だと自惚れているから、悪人に対して厳しく責める。でも、真実から言えば、相手は自分。相手を責めることは自分を責めることと同じ。悪を責めるから、自分が悪になった時に責められているように感じて不安になる。その為、いつも自分は善人だという所に立って生きている。本当は悪人になることが不安なのに、自分は善人だと思って、平気で悪人を責め、罪悪を造り続けている世界が生死の苦海。
私たちはこの生死の苦海に久しく沈みながら、自分は善人だと思う為に悪を責め、責めることによって自分は善人という所に立って安心している。このように私たちは自分が善人になる為に悪を責めることが業になっている。だから、どこどこまでも、罪悪を犯しながら、自分は善人という所に立つことによって安心している。そういう意味で生死の苦海にはほとりがない。
こんな私たちを哀れに思って阿弥陀仏は善知識を遣わし、説法を通して、自分が如何に苦しみの世界に沈んでいるかを教え、その苦しみから離れ、心から安心できる世界へと連れて行こうとされているのです。