昔、大学生のときゼミの恩師にこんなことを尋ねた。
「先生、先生はご自分が生活のなかで感じる様々な想いを表現したり、誰かに伝えたり、そんな表現欲求は人間に共通するものだと思いますが、先生の場合はそれをどのように実現させているのですか?」
その時の先生のお答えが今でも忘れられず時々思い出す。
「そりゃあぼくだって色々想うところはあるさ。しかしいちいちそれをフロッピーディスクのようなものに正確に記録して、他人に『はいどうぞ』って渡すことはできないからね。」
昨日の英検不合格報告の記事は、努めて事もなげを装って書いた。しかし内心忸怩たる思いは強かった。
英検対策という形式に則った英語の勉強こそ十分にはしなかったが、自分なりに英字新聞を読み、アメリカの公共ラジオをネットで毎日聞き、ネイティブの友人と頻繁に会話し、自分のなかに確かな英語力が育ちつつあることを実感していた。
しかし、社会ではどんなに「私は教えることが得意です。そして私は英語が出来ます。だから貴校の教壇に立たせてください」と嘆願しても、
「では、教員免許はお持ちでしょうか?」
「では、その英語力を証明するものはお持ちでしょうか?」
「教員免許も英語力を証明するものも何も持っていません。詳しくはブログを読んでください」
では、お話にならない。相手にもされないどころか、ただの非常識な変人として門前払いされる。
ぼくは、自分の英語に自信があった。それは他人と比べてではなく、過去の自分のそれと比べての自信や信頼であった。
それはそれでよいことだとは思うが、しかしそれは目には見えない。
社会的には、その目に見えないものを誰の目にも明らかなものに結実させる力を「実力」と呼ぶ。
その意味で、昨日の英検不合格は、自分の実力の無さを思い知らされた。
作家は、単に自己の内面を爆発させているのではない。小説という「フォーマット」に想いを落とし込んで、しかも商業的に成功するようにも技巧をこらして、社会に提出する。
なんであれ、人に認められるというのは、人の目に見えて明らかな形式や手順を踏み、「資格」や「証明書」という歴然としたものに結晶化させることだ。
ぼくは、その点で、今のところ、「身に振る文字」が何もない。
無形のものに外面的な存在証明を与える力、すなわち、実力、それを身に付けるのがこれからのぼくの非常に大きな課題である。
いぬまゆさんが仰ったように、「明日からはやるべきことをやりましょう」、これに尽きると思った。
最後に、大学の恩師の言葉、「想いをフロッピーディスクにいちいち記録して他人に渡すことはできない」について。
私は、昨夜悔しさのあまり眠れなかった。しかし、いつでも励ましたり慰めたりしてくれる誰かが自分の近くにいるとは限らない。
時には、いや多くの場合、自分の感情は自分一人で治めなくてはならない。それが「大人」というもんだ。
私は、まだ「子ども」である。
先生の言葉は、そんな意味で解釈している。
「ゴンくん。誰もが自分を理解してくれるとは限らない。それ以前に自分の感情のすべてをその都度表現する機会は与えられない。多くの感情は自分でナントカ折り合いを付けなくてはならないもんだよ」
先生はそう言いたかったような気がする。
大学を卒業して時が経ち、9月には31才になる。
それでもまだまだ未成熟な私だが、先生の存在と言葉にどれほど救われたか知れない。
「このひとに出会えなかった自分はどうなっていたか分からない」と心から思える誰かを与えられたことは幸せだと思う。感謝します。心から。