時計。 | 秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3


秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3




私は未だ読んだことがないのですが、時計や時間という言葉で思い浮かべる児童文学と言えば、「時間どろぼう」についてのお話し、ミヒャエル・エンデの『モモ』でしょうか。夙に有名な作品で、いつか読もういつか読もうと想いを寄せているのですが、そう想って10年ぐらいが過ぎてしまいました。そうやって自分が懶惰に過ごした時間は、自分の貴重な人生時間を自分でかどわかしどこかに捨ててしまったような時間にも思えてしまいますから、「ああ、やっぱり時間というのは大切なんだなあ」というなんとも当たり前の結論に達するのでした(汗)


先日、「魔女宅(『魔女の宅急便』の略)の家」と周囲に呼ばれる素敵なお家にお住いの友人と電話で話した時のこと。彼女には、まだ幼い二人の娘様がおりますが、近所の託児所でさんすうの勉強のお手伝いを就学前のお子さんを対象になさっているそうです。


彼女曰く、「いまねえ、時計の読み方を教えているのだけれど、みんなデジタル時計に慣れているからアナログ時計の針の読み方を教えるのは大変なんですよ。昔みたいにさんすうセットとかもないしね」。


このお話を伺って、「ああ、そーいえば、小学低学年のころ、時計の読み方なんて習ったなあ」と遠い昔のさんすうの時間を思い起こしては、ひとしきり懐かしい心もちに満たされたのですが、他方で、一人の幼子が成長し大人へとなる過程で、どれほどの多くのことを学ぶ必要のあることか!そしてどれほど多くの人々の助けと愛情を受ける必要のあることか!ということにハタと気づくと、わが身を振り返って「自分がここまで歩んでこられたのは、感謝であるということ以外にはもはやあり得ないのではないだろうか」と、つい不平不満が先立ってしまう自分を自戒するのでした。


うさぎさんはさみしいと死んでしまう、というのはどうやら本当の話しのようですが、それは人間の赤ちゃんにも当てはまることらしいのです。つまり、人間の赤ちゃんも過剰なる「愛情飢餓」に陥ると命の燈火がその時には消えるのだそうです。大学時代、ゼミの最中友人が、「森田療法」についての個人研究の発表をしたのですが、コーヒーブレイクの折に、「ぼくは、まったく愛されないで育った気がする」という旨の発言を私がすると、それを聞いた先生は、このお話をしてくださいました。「君が、本当に愛情飢餓状態だったのなら、君はその瞬間命を落としていたはずだぞ。君が今日まで生きながらえてきたという事実の背後には、確かに愛された或いは愛情を示された過去があったことの物言わぬ証拠じゃないだろうかね」。


今、なにも考えずさらりと時計の針の指す時刻を理解できること。このたった一つの事柄だけを取り上げても、その背後には往時受けた教えと愛情があり、いま現行行っているあらゆる行為は独力で身に付けた故に行い得ているのではなく、気の遠くなるような時間がゆっくり過ぎゆくその過程で確かに傍らに居た親や先生、友人、その他大勢の周囲の助けがあったからこそなんだ、ということを物語っているようでもあります。


この地上に生れ落ち、社会の内懐深く抱かれ、長じていく。といささか難しく書きますと、真実がむしろ誤魔化されてしまいそうな気がします。そうではなく、もっと単純に、「生まれた。育った。生きている。」と無味乾燥に事実を並べると、逆にその背景にはどれほどの物語があったことだろう、と言外の諸々の重い想いが浮き上がってくる感覚がしませんか?


「今を生きる」という言葉をよく耳にします。きっと「今を真実生きる」には、今という瞬間に自分が至ることが出来た理由に感謝する気持ちが大切なのでしょうか。。。。


写真の時計は福島中央郵便局に隣接する公園に立っている時計で、区切りの好い時間になると音楽が流れる仕掛けになっています。


「時計」からいろいろと考えてみました。