中学受験つれづれ-プロ家庭教師の独り言- -2ページ目

中学受験つれづれ-プロ家庭教師の独り言-

中学受験に携わって25年になりました。日々、生徒と触れ合う中で感じることを発信していきたいと思います。

(2)ベント,そして水素爆発


 その後,福島第一原発は格納容器内の空気を外部に排出する作業―ベント―を行います。このベントにより,相当量の放射性物質が大気中に放出されました。それらの放射性物質は折からの南東からの強い風に乗り,原発北西方面に広範囲に降り注ぎます。


 ベントによって,格納容器が内部圧力に耐えられず爆発するという最悪の事態は避けられた。しかし現場の安堵感は一瞬のことでした。12日15時36分,つまりベントの成功が確認された約1時間後,原発内に爆発音が響きます。格納容器内の燃料被覆管にあるジルコニウムという物質が熱で溶けると水と反応して水素が発生します。その水素が酸素と反応して爆発を起こすのが水素爆発ですが,この水素爆発が建屋内で起こったのです。


「吉田たちにとって,目の前が真っ暗になる最悪の事態だった」(本書92ページ) 


 官邸も茫然自失となります。それもそのはず,原子力安全委員会の斑目委員長は,管総理に「水素爆発はあり得ない」とはっきり断言しているのです。


「『テレビを見てください!』首相官邸の5階の秘書官室にいた寺田学首相補佐官は,絶叫のような声にびっくりして振り返った。官邸にいる総理秘書官付きの事務官が『日テレを見てください』と大声を上げた。
 画面には1号機が爆発する様子が映っていた。(中略)火花が散ってもうもうと噴煙が巻き起こっていた。
 慌てて寺田が隣室の総理執務室に入ると,首相は福山官房副長官と原子力安全委員会の斑目委員長と打ち合わせ中だった。1号機で白煙が上がっているという情報が入っていたため,管が斑目に質問し,斑目が「揮発性のものでしょう」と答えていた。
 寺田が駆け込んだのは,ちょうどそんなときだった。『総理,原発が爆発しました』と言って,ひったくるようにリモコンを奪って画面を切り替えて映し出した。
 衝撃的な映像が何度もリピートされる。管は絶句している。広報担当の下村健一内閣審議官が斑目に問いただすように聞いた。『斑目さん,今のは何ですか?爆発が起きているじゃないですか』
 そのとき斑目は,福山の記憶によれば(中略)両手で顔を覆って,『うわーっ』とうめいた。頭を抱えたまま,そのままの姿勢でしばらく動かない。福山が『これはチェルノブイリ並みの事故ですか』と聞いても返事がない。
 一部始終を目撃した下村にとって,生涯忘れることのできないような衝撃的なシーンだった。これが日本の原子力の最高の専門家の姿なのか―そう彼は思った。(本書94ページ)


「菅はこのあと東電の誰かに電話したようだった。電話の相手は『いま現場で確認中です』と答えたようだった。管がいらだって『確認するって言ったって,現にいまテレビに映っているじゃないか』というのを執務室にいた下村が聞いている」(本書96ページ)


   *   *   *


(3)3号機そして4号機でも爆発

 

12日の18時ころ,管総理が海水注入を決断します。とにかく,水を注入して炉を冷やさないとならない。本来は真水が望ましいものの,電源を失い,冷却水の循環システムの再稼働のめどが立たない以上,手近にある海水でもなんでも炉心を冷やせるものならないよりまし,という判断だったのでしょう。海水を入れることによって腐蝕する可能性もありますが,背に腹は代えられません。現地も同じ判断をし,吉田所長の指示で19時4分,海水注入が開始されました。しかしこの後すぐ,東電本社から海水注入にストップがかかります。官邸から正式なゴーサインが出ないうちに勝手に着手してはまずいのではないか,という判断でした。しかし現場の吉田所長はやっと開始した注入を止める気はありませんでした。


 「それ(海水注入を停める指示)を聞いた吉田は従わなかった。やっとスタートできた海水注入をいまさら中断する気にはなれない。冷やし続けなければ危機が深刻化するのは自明の理だったからである。そのためには海水を注入し続けないければならない」(本書100ページ)


 そこで吉田所長は一計を案じます。海水注入をストップさせたふりだけして,部下には注入を続けよ,と指示したのでした。


 吉田所長は東工大の大学院で原子核工学を専攻,1979年に東電に入社しています。東工大の大学院卒と言えば十分立派な学歴ですが,東電の原子力部門は東大工学部卒が主流を占めており,彼はそんな中にあって主流にはなれなかったようです。


「彼ら一群の原子力村エリートと比べると,吉田は東工大の院卒とはいえ,発電所勤務の長い『現場の男』だった。1999年からの3年間は福島第二原発の発電部長を務め,2005年から2007年は福島第一原発のユニット所長として赴任している。」
「東電の原子力部門はその内部にお手もタコつぼ型のいくつもの小集団に分かれ(中略)東大工学部卒の『理論派』と呼ばれる一群のエリートが,長期的な原発立地計画を立て,東芝や日立製作所など原子炉メーカーと仕様を協議し,学会の動向を把握する。彼らは原子力部門では内部官僚的な職務をこなして出世街道を歩むため,原発の現場のことにはそれほど精通していない」
「(吉田は)現地採用の高卒の社員や『協力会社』と呼ばれる下請けや孫請けの男たちを使って,発電所を切り盛りする。そんな役目の『現場の男』だった」(本書36ページ)


 今回の原発事故が本当の最悪の結果を招かず,どうにかぎりぎりの崖っぷちで踏みとどまったことは,本書を読む限り,多分に幸運が重なった結果だったということが分かります。その幸運の最たるものはこの吉田昌郎所長のような人物がその場に居合わせたことだったのではないでしょうか。


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 時間軸を少し戻します。地震翌日の3月12日の土曜日,当然朝の段階でこの日の塾の授業は休講となりました。土曜日は家庭教師の仕事があったのですがそれもお休みに。塾はもともとこの時期は日曜の講習はなかったので,とりあえず月曜日以降どうするかは日曜日中に決定・連絡,ということになり解散。一緒に夜明かしをした同僚の先生たちも三々五々,帰路につきました。僕も,18時ごろだったか,自宅に戻ります。家に帰り「パパ,怖かったよ~」と抱きついてきた二人の子供を抱きしめ返したときの安堵感はおそらく一生忘れないでしょう。
 その後,テレビをつけて続報を追いましたが,こんな惨事のまっただ中にありながら原発が大変なことになっている,という雰囲気ではなかったような記憶があります。津波の被害がとにかく甚大で,恐らくは万単位の犠牲者がでるだろうという警察庁の発表を聞きます。さらに「南三陸町では町民1万7千人のうち1万人の安否がわからない」とのニュースを聞き背筋が凍りついた覚えはあるのですが,原発に関連して今まさに「東日本滅亡の危機」の瀬戸際にいる,という報道はなされていなかった気がします。政府がパニックを恐れてすべてをつまびらかにしなかったのでしょうか。それともメディアがまだ事の重大さをこの時点ではきちんと認識していなかったのでしょうか。

 食料を買いに外出し,ちょうどそのとき自家用車のガソリンが底を尽きかけていたので,近所のセルフのスタンドに向かった僕は,スタンドの手前で目を疑いました。50台程の車がスタンド前に長蛇の列を作っているのです。給油するまでかれこれ30分ほどかかりましたが,実はこの日給油できたのはものすごくラッキーだったことを翌週,痛感することになりました。
 
 一日あけ,震災発生から3日目となった3月13日の日曜日。どのチャンネルを回しても,もちろん朝から震災一色です。確かこの日くらいから例の「AC(公共広告機構)」のCMが頻繁に見られるようになったのではなかったでしょうか。
 各局とも,まずは地震と津波の被害を伝え,「さて,もう一つの懸念,福島第一原発です」と原発の問題は地震・津波のその次,という扱いでした。だから視聴者たる我々にもいまいち深刻さが伝わらない。加えて出てくる学者が押しなべて「建屋で起きた爆発は単に被膜から出た水素と酸素が反応したもの。いわゆる水蒸気爆発ではない。だからこれはチェルノブイリとは違う(そこまで深刻ではない)」と言う。

 あの12日の各局のテレビに出ていた学者さんたちというのは,いったいどういう人だったのでしょう,今にして思えばあまりに楽観的な意見のオンパレードでした。そのテレビを観ながら僕は首をひねります。「自分だけはすべてをお見通しだった」という法螺を吹く気はありませんが,「そんな楽観的な見通しで本当にいいのか」と。 日記をつける習慣は自分にはありませんが,この13日に書き留めたメモがここにあります。


「確か,原子炉の燃料棒の温度は空焚き状態で放置すると2800℃くらいまで上がるのではなかったか。燃料棒を形成している外側(外殻)の合金の融点は確か1500℃。すると放っておくと外側の合金は融けてしまい,中のウランやプルトニウムがドロドロの状態で流れ出して原子炉の底に溜まる。溜まったウランは最悪の場合,再び連続的な核分裂状態となる。つまり再臨界。そしてさらに高熱化したウランは炉心の底部を融かし下に向かい,最後に格納容器の真下にある圧力抑制室の約3000立方メートルの水と触れる。3000tの水の中に3000℃近いドロドロのウランが落ちる。水は気化すると液体の状態に比べ1240倍に体積が膨張する。恐らく上部の格納容器や建屋はひとたまりもなく吹き飛ぶ。チェルノブイリの比ではない,人類史上最悪規模の水蒸気爆発。それは周囲に,何百年も人どころかあらゆる生物が生息できないほどの大量の放射性物質をまき散らす。直線で250kmの首都圏にはおそらく半永久的に人は住めなくなる…。本当にテレビが言うほど安心していいのか。自分の知識に誤りがあることを祈るが…」


 昼前,近所のスーパーに買い物に行ったとき見た光景は今でも忘れられません。カートにインスタントラーメンやミネラルウォーターを満載にした主婦の方々が,まさに目を三角にして走り回っている。比喩でなく,本当に店内をカートを押して走っているのです。その姿を見た瞬間,(ああ,当分,仕事の方はダメだな)と直感しました。受験指導なんて,言ってみれば世の中が平和だからこそできるものです。


 夜,翌日14日以降の計画停電実施の発表がありました。午後イチに塾から,ひとまず春期講習会までの期間を臨時休講にする旨の連絡がありました。家庭教師のご家庭とも連絡を取り合い,14日から始まる週の授業は全部お休みに。時給と言うか日給と言うか,固定給ではない自分にとって痛いは痛いですが,未曾有の大惨事の後です。仕方がありません。


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 1・2号機に加え,3号機も13日午前3時過ぎに冷却機能を失います。そして3月14日(日曜日)午前11時,3号機が水素爆発。しかし,日本中が唖然となったのは,15日火曜日に起きた4号機建屋の爆発だったのではないでしょうか。4号機の原子炉そのものは地震発生時,冷温停止中でした。だから1~3号機のような炉自体の「暴走」が起きる心配はない。それなのになぜ…!?

 その原因は燃料棒プールでした。タービン建屋内に使用済み燃料棒を保管しておくプールがあり,そのプールに全長4mの燃料棒が4065本,沈められている。このプールの中の使用済み燃料棒も崩壊熱を出し続けるため,普段は冷却水を循環させて熱交換して一定温度に保っている。このポンプが地震と津波でやられてしまい,動かなくなってしまっていた。ゆえに当初プールを満たしていた水はどんどん気化して失われていき,燃料棒がむき出しの状態となる…。炉心の中の燃料棒はまだ分厚い格納容器に守られています。しかしこの4号機のタービン建屋内の燃料棒プールと外界を遮るのは,普通の倉庫に毛が生えた程度の建屋の壁しかない。やはりこのプールでも,ウランやプルトニウムがそれぞれの燃料棒から漏れ出たら再臨界の可能性があります。しかも今度は外界の大気にむき出しの状態で核分裂が進むことになる。その危険度は1~3号機の比ではないかもしれない…。そんな解説をテレビで聞いたとき,僕は思わず声に出して「ふざけるな!」と叫んでしまいました。そんな馬鹿なことってあるか!燃料棒をむき出しに近い状態で4000本以上もストックしている?それも建屋のプールの中だ?そして水がなくなってしまって再臨界するだと?いったい東電と経産省は今まで何をやっていたんだ。彼らのリスク管理はどうなっているんだ。東電,原子力安全保安院と言ったら自分が逆立ちしたってかなわない,エリート中のエリートの集まりじゃないのか?電気で動くものは電気が止まれば当たり前のことだが,動かない。じゃあ電気が止まったときにはどうするか。そんなこと,小学生だって考えるものだろう!

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 先日「メルトダウン」(大鹿靖明氏著,講談社)を読了しました。

 とてもとても考えさせられる内容でした。


 昨年の3月11日に東北地方を襲った巨大地震と津波。これ自体はもちろん,天災です。しかし,その後に起きた東京電力福島第一原子力発電所の炉心溶融事故は,この書を読む限り,人災以外の何物でもない,という印象を持ちました。


 なぜこのような,世界最悪級の厄災を私たちは招いてしまったのか。「安全神話」という語が,事故後,多くの場面で語られました。「原子力ムラが作り上げた安全神話を盲信していた(させられていた)」 そこにあるのは,私たちはあくまでも被害者であり,被誘導者であるというニュアンスです。あたかも,先の第二次大戦終戦後,「悪いのは軍部だ」「暴走した軍部とそれを停められなかった政治家のせいだ」と,すべての原因を国民をミスリードした一部の軍人や政治家に押し付けた論調のようです。


 一連の事故の経過,そして徐々に明かされるその原因を見聞きするにつれ,この事故についても,果たして東電の幹部や原子力安全・保安院だけにこの責任を押し付けていいのだろうか,という疑問が僕の心の中に生じました。もちろん,第一義的責任は両者にあります。しかし,その根本原因を考えたとき,私たち国民は「完全に無辜である」と言えるのでしょうか。この一連の福島第一原発で起こった事故(?)は,まさに「自分の頭で考える」「最低限度の想像力を働かせる」ということをせず,ただ上から覚えろと言われたことを機械的に覚え,あるいは覚えさせてきた,そして目先の問題をクリアしさえすればOKという思考回路を根付かせてしまった,この日本という国の教育の結果,その失敗の証しなのではないでしょうか…。読み終えたとき,頭に浮かんだのはそんなある種の「敗北感」じみた思いでした。


 いみじくも,森上教育研究所の森上展安先生が「受験菅見」(さぴあ2012年3月号所収)で次のように書かれているのを拝読しました。

「実際のところ,今は,多くの授業が「東大入試に出るかどうか」ということでその価値を判断される傾向にあるように思う。難関校や準難関校の先生方や生徒も,さらには保護者の皆さんもそうした雰囲気に染まりやすい。そのことが悪いというのではなく,入試とは関係のない『学問独自の軸』がもはやどこかに行ってしまっているのではないか,その危うさを多くの人が自覚しなくなっていることの方がむしろ恐ろしい。」
「1年ほど前,男子難関校の校長先生らと雑誌の座談会でご一緒した際,偶然にも原発事故が話題になった。その時皆さんが共通して持っていた認識は『全体のシステムを総合的に考える知性が欠けている』ということ,ひいては『個人個人が拠って立つ軸が流されやすくなっている。それがとても危うい』ということだった」


 まさに,この「メルトダウン」を読了して胸に去来した思いを簡潔かつ的確に言いあらわされている,と感じました。

 これから何回かののブログは,「メルトダウン」を引きながら,この問題に関しての自分の考えを述べさせていただきたいと思います。もちろん自分は「たかが塾屋」です。天下国家を論じる滑稽は理解しているつもりです。しかし,このブログを,大変ありがたいことに熱心にお読みいただいている何人かのご父母や同じ業界の方々の存在も存じ上げています。それらの方々に,少しでも自分の抱いている危惧と敗北感が伝われば,そしてその方々が少しでも「自分の頭で考える」「想像力を働かせる」ということの大切さを念頭において子育てや教育をして下さったら,と思い,身の程知らずの誹りを恐れず今回の内容をアップしたいと思います。


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(1)地震発生,そして全電源喪失

 あの2011年3月11日。このブログでも一度書きましたが,都心の塾で授業準備をしていた僕は,収まるどころか揺れ始めて30秒経ってもさらに大きな波が押し寄せる,かつて経験したことのない地震に飛びあがりました。すぐにヤフーのニュースで宮城県沖で大地震があったことを知ります。まず頭に浮かんだのは,「これだけ揺れたというのに震源はここから300km近くも離れている。いったい震源近くはどんなひどいことになっているんだ!?」ということでした。夕方の授業の教壇に立つべく15時過ぎに出勤した同僚の先生が職員室に入るなり開口一番「やばい,仙台は火の海になっている」と言い,皆青ざめた顔を見合わせました。しかし仙台の火災はこの未曾有の大災害のほんの序曲だったことを私たちはやがて知ることになります。


 ヤフーのニュース一覧に,突如(ではないのかもしれませんが,自分は「突然」と感じました)「原子力緊急事態を宣言」という見出しが現れたのはいつごろだったのでしょうか。はっきりとした記憶はないのですが,今,「メルトダウン」を読むと,当日の20時くらいだったのではないか,と思います。その前に福島や女川などの原子炉が緊急停止したことは知っていたので,配管か何かが破損して冷却水や微量の放射性物質が漏れ出たのか,と思いました。それにしては近隣住民を退避させる緊急事態宣言とはずいぶんと早手回しな,というのが第一感でした。この時点では,現場ではチェルノブイリ級の重大事故が起きていたなどもちろん知る由もありません。東海村で被曝により犠牲者が出たJCOの臨界事故の教訓を活かして,迅速に退避指示をだしたのだろう,と。
 
 その後,おそらく,11日の夜中には「原子炉内の温度が急上昇」とか「電力が供給されない状況」(この時点では確か「全電源喪失」という術語は一般的ではなかったと思います)というニュースがネット上でも飛び交ったのでしょうが,地震と津波の被害状況にばかり気を取られていた僕は原発については一時的に意識から抜け落ちていました。近くのネットカフェで仮眠し,朝,10時ころだったでしょうか,再びPCを立ち上げたとき真っ先に目に飛び込んできたのはヤフーニュースの「福島第一原発,メルトダウンか」という衝撃的な文字でした。


 原子炉は停止後も核分裂生成物などによってものすごい量の崩壊熱を出し続けます。それは冷やさなければやがて炉心そのものを熱で溶かしてしまう。これが炉心溶融=メルトダウン です。それを避けるために,原子炉は停止させた後も冷却装置で冷やし続けなければならない。しかし地震で原発に電力を供給している鉄塔は倒壊,福島第一原発は外部からくる電力(外部電源)を失いました。さらに頼みの綱だった非常用ディーゼル発電機は地震発生から40分後に来襲した津波により水没し働かなくなってしまいます。つまり,原子力発電所では決して起きてはならない「電力が全く供給されない状況=全電源喪失」が発生してしまったのです。


「!?!?!?!?!?!?」


 僕は咄嗟にはいったいなぜメルトダウンが起きた,もしくは起きつつあるのか,のかわかりませんでした。大学時代,一般教養科目の課題でスリーマイルアイランドの原発事故を調べたことがありました。その際に「チャイナシンドローム」や「水蒸気爆発」という事象を学んだことがあった僕は,「メルトダウン」が意味することをたぶん,一般の方々よりも多少は分かっていたのだと思います。一瞬にして総毛立つ,というのはこのことを言うのでしょう。自分の二の腕に立った鳥肌を,今でもはっきりと思いだすことができます。
 慌ててグーグルの地図で福島第一原発と自宅の距離を目視で測ると220km程度。チェルノブイリでは,最大半径350km圏で高濃度の放射性物質が観測され,農作物の無期限作付停止措置・住民の移転推進措置が取られている。もちろん,原発から大量の放射性物質が放出されたとしても,JOCの事故のような,瞬時に生命に危険が及ぶようなレベルではないでしょう。もう40代も後半になる自分は被曝してもその影響が現れるころには寿命も尽きる。しかし自宅には小学生低学年の2人の子供がいる。成長期の子供が被曝したら…。そしてまた福島第一原発で大規模な水蒸気爆発が起きれば,おそらく直線で250kmの東京も強制退避地域になる。首都圏4000万人の住民が着のみ着のまま中部や関西や北海道に逃げたとして,そのあといったいこの国はどうなっちゃうんだ…。冷や汗が流れてきました。向かいの席の同僚から「大丈夫か,顔が真っ青だぜ」と言われたのはこのときです。


 この時点まで,現地ではどのようなことが起きていたのでしょうか。「メルトダウン」から該当部分を引用させていただきます。


「(津波の)被害はあまりに甚大だった。海側に面した主要建屋のほぼ全域が浸水し(中略)濁流が勢いよく押し寄せ,タービン建屋も原子炉建屋もまるで海水に囲まれた孤島のような状態に陥っている。海水は地下に怒濤のように流れ込み,海側に面するタービン建屋などにあった1~6号機の非常用のディーゼル発電機12台と1~5号機の非常用電源盤はこのとき水没したり,関連機器が浸水したりして,使い物にならなくなった」(27ページ)

「吉田(=吉田昌朗福島第一原発所長。引用者注)たち免震重要棟にいた幹部たちは,想像を絶する事態に一様に言葉を失った。想定していたあらゆるシビアアクシデントをはるかに上回る事態だった。吉田は何をすればいいのか,咄嗟には思いつかなかった」(本書11ページ)


 吉田所長は午後3時42分,「原子力緊急事態が起きかねない状態」になったと判断し,特定事象発生通報をファックスします。そしてさらに50分後,より事態が悪化したとしていわゆる「15条通報」を行いました。3:42のファックスが「10条通報」すなわち「緊急事態が起きかねない状態」という判断に基づくのに対し,この「15条通報」は「緊急事態が起きている」際に行われます。つまり事態が一段と悪化していることを意味します。ここにおいて我が国で初めての「原子力緊急事態」,首相が緊急事態を宣言し,放射能汚染にさらされそうな周辺住民を退避させなければならないという最悪の事態が生じたことが明らかになりました。


「原子炉の緊急停止にほっとしていた東電本店の対策本部は,電源を失ったという知らせに一気に緊張が走った。幹部の一人はあまりの事態に言葉を失った。『電源を失うと原子炉を冷やせない。このままではメルトダウンが起きる』」(本書27ページ)


「本店で留守を預かる小森明生常務(原子力・立地本部副本部長)は気が気ではなかった。外部からくる交流電源と非常用のディーゼル発電機を地震と津波で失った今,原子炉を冷やすには自家発電ができる電源車に頼るしかない。電源車は緊急を要する。警察に先導を要請してほしい,と指示を出した」(本書37ページ)


「海江田経産相はこの日午後4時すぎから開かれた全閣僚出席の緊急災害対策本部の会議を終え,4時半ころ経産省に戻ってくると,事態は腰を抜かすほど一変していた。海江田が福島の第一・第二原発について最初に受けた報告は,原子炉が緊急停止した,ということだった。だからそれまでの彼の問題意識は,電力消費地の関東圏への一大電力供給拠点の能力を失い,これから大規模な停電が起きるかもしれないことにどう対応するか,という点にあった。(中略)それなのに,官邸から経産省に戻った大臣を待ち構えていたのは予想を超える凶報だった。『大臣,福島第一原発の原子炉に異常事態が発生しました』」(本書38ページ)


 官邸も右往左往します。

「いったいどうやって緊急事態を宣言するのか,官邸にはノウハウらしきものがほとんどなかった。(中略)管(首相)の秘書官たちが慌てて六法全書を広げて関連法規を読み漁っている」(本書42ページ)


 そして政府は19時3分に原子力緊急事態を宣言します。自分がヤフーニュースで見た,と書いたのは当然この宣言の後ですから,20時ころだろう,と今思うのです。

 午後8時50分,緊急事態を宣言しておきながら避難区域が定められない政府に業を煮やした福島県が半径2キロ圏内の住民に避難指示。午後9時23分に政府が10キロ圏内の住民に避難指示。午後9時52分からの枝野官房長官(当時)の会見で「速やかに退避を始めていただきたい」と国民にメッセージを伝えます。


 こうして官邸がオロオロしているうちにも現場の状況は悪化の一途をたどります。

「福島第一原発所長の吉田から空恐ろしくなる連絡が、経産省の原子力安全・保安院原子力防災課あてにファックスで届いたのは午後9時15分のことだった。(中略)そこには2号機の燃料棒がむき出しになり始める時間が『21時40分頃になると評価しました』とあった」


 そして続くデータ解析から,27時20分(12日午前3時20分)には原子炉格納容器設計最高圧に到達してしまう旨が記されています。格納容器が設計上耐えうると思われる圧力に6時間後には達してしまう,という意味です。福山官房副長官は「どこからでもいい。1台でも早く現地についてほしかった。四方八方から福島第一原発をめざせ,と」(本書50ページ)と祈るような気持ちでいたことを事故調に述べています。

 

ようやく,東北電力から派遣された電源車の第一陣が緊急時の対応拠点,福島オフサイトセンター(原発から5kmほど離れたところにある)に到着したのは午後9時過ぎ。
 
 「官邸では秘書官の一人が『いま原発に着きました』と大きな声をあげると,秘書官室の庶務の女性が『良かったー』と泣き崩れんばかりの声をあげた」


 ところがあきれ果てるような事態が起こります。

 「ところが接続プラグが合わなかった。しかも電圧も合わなかった。菅総理はそんな報告を受けて
びっくりした。『合わないなんて…。電力会社なのに事前の準備が全然できていないんだ。そんなことってあるか!』(本書52ページ)


 「そこで福島第一原発所長の吉田は2号機建屋内の動力変圧器につなぐことを考えた。しかし,2号機周辺は瓦礫が散乱しており,電源車が近づけない。(中略)2号機のタービン建屋の脇まで電源車を移動させて,建屋大物搬入口から動力変圧器のあるところまでケーブルでつなごうと考えた。それには,200メートルのケーブルが必要だった。だか電源車が搭載しているケーブルはそんなに長くない。

 現地から『長いケーブルを空輸できないか』との知らせを聞いて東電本店の対策本部は慌てて社内や取引先に『200メートルくらいのケーブルはないか』と問い合わせるが見つからない。

 いったん女性スタッフが泣き崩れんばかりの歓声を上げた官邸は,『電圧が違う』『ケーブルの長さが足りない』と次々入ってくる報告に愕然とするばかりだった。」


 「やっと,原発所内下請け企業が定検工事用に保管しているのをその企業の従業員が思い出し,ケーブルがあると聞いて一同はホッとしたのもつかの間,いざそれを取り出そうとすると,今度は鍵がない,という」(本書53ページ)


 例えばドラマや映画で上記のようなシーンを役者さんが演じたとしたらどうでしょう。余りのバカバカしさに見ている人は失笑し,「いくらなんでもそれは作りすぎでしょ」と言うに違いありません。しかし,それが現実の現場で起きていることだったのです。
  
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 さてお待たせしました。
 
 三大塾の最後に行ったのは「今を時めく」サピックス。


 1989年創立。TAP進学教室と袂を別った講師たちが立ち上げました。その当時はTAPに残る先生とサピックスに移る先生とでずいぶん確執というか暗闘があったようです。本当かどうかわかりませんが,TAPの幹部の先生が辻辻に見張りに立っているとか,若手の先生たちが一緒に帰らないように,退社は30分ごとに一人ずつ帰されるとか,そんな噂が面白おかしく語られていました。


 めきめきと頭角を現したのは90年代半ばだったでしょうか。そして今や押しも押されぬフロントランナーに。TAPの方は,数年前にとうとう解散してしまいましたね。最後まで残っていた数教場は栄光ゼミナールに吸収されたのではなかったでしょうか。


 今年もこのサピックスの男女難関校に対する合格実績は圧勝でした。開成229名(前年比+8名),桜蔭148名(同+7名)をはじめとして,男女御三家+駒場東邦の7校に896名。ちなみに2位の日能研は430名,四谷大塚が357名,早稲アカ341名。2位と3位を足しても1位に届かない,というのは他の業界でもあまり無い,いわゆる「一人勝ち」という表現がふさわしいでしょう。

 

ときに,開成中学の合格者は発表数394名で,塾ごとの合格者数は
①サピックス…229名
②日能研…93名
③四谷大塚…75名
④早稲田アカデミー…70名
⑤市進学院…16名
⑥栄光ゼミナール…10名
⑦希学園(東京のみ)…9名

です。これらの合計は502名。なんと実数の約25%増しになっています。四谷大塚が「合格者数はYT-Net加盟塾の合計数です」とうたっていること,早稲田アカデミーがYTテストに参加していることから,「四谷の合格数は早稲アカの合格数を含んでいるのでは?」と言われますが,武蔵や女子学院の合格数は 早稲アカ>四谷大塚 なので,四谷の合格数に早稲アカの合格数が含まれているわけではないことが分かりますね。


日本で売られているコーヒー豆プルーマウンテンの総量は収穫量の3倍にもなる(笑)という話を読んだことがあります。さすがにそこまではいきませんが,やはりどこかがインチキをしている。もちろん,例えば普段は早稲アカに通塾し,SS(サンデーサピックス)だけサピックスに通塾している,とか,2学期末まで日能研にいたけど冬期講習会と1月は希学園に転塾した,というようなパターンはゼロではないでしょうが,そんな生徒が100名以上いるわけがない。

ちなみに,税理士や会計士の合格者数を競り合う専門学校同士には紳士協定みたいなものが存在します。「本科コースを受講している人が模試だけ他校で受けても模試の主催校の合格実績には含めない」とか「本科コースと直前短期完成コースの受講が異なる場合は本科コースを優先」とか。そのルールに則り同一の受験生を二校でダブルカウントはしない,と。そのあたり,やはり認可を受けている学校法人ですから無茶はできません。塾の合格実績もそろそろきちんとしたルールを作るべきでしょう。数字の水増しは一昔前までならば「モラル」の問題でしたが,今や「優良誤認」という立派な違法行為です。このままでは業界全体の成熟度が問われかねません。


   *     *    *


 閑話休題。
 サピックスの話に戻りましょう。実はサピックス生は家庭教師の一番のお得意様です。理由の一つは厳しい課題にあります。いや「厳しい」と言っても,提出を義務付けられているとか,やっていないと怒られる,というようなことはありません。やらない子はやらないままです。その辺りは早稲アカや栄光ゼミナールの方がフォロー(このフォローの意味は,文字通り follow=追尾するの意味です。careの意味ではありません。つまり宿題をやったかどうか厳しくチェックする,という意味)が徹底されています。


 では何が厳しいのか。それは内容そのものです。「えっ,この時期(学年)にこの問題をやらせるのか…」と絶句するような問題のオンパレード。最初,サピックスの生徒を担当した時,思わず「タイガーマスク」の「虎の穴」を連想してしまいました。ご存じでない人のためにWikipediaの「虎の穴」を参考に説明すると


“「虎の穴」では世界中からスカウトされた気が荒く腕っ節の強い子供たちが地獄の猛特訓を受け,10年計画で強靭なレスラーに仕立て上げられていく。その過酷なトレーニングにより基礎訓練の段階で全体の3分の2が淘汰され,その後の課程でも残りの大多数が脱落する。さらに最後に残った子供たちには素手でライオンと戦うなどのより恐ろしい地獄の試練が待ち受けている。結果,この養成機関を卒業できるのは当初の入門者のほんの一握りである”

 確か,コールタールのプールを泳がされたり,千尋の谷の上にかけられたロープを,何十キロもの錘を下げられた状態で「運手」の要領で向こう側に渡らされたり,そんな特訓が主人公,伊達直人の回想シーンで出てきた記憶があります。子供心にそのシーンは鮮烈でした。


 自分がサピックスの生徒を初めて指導したとき「無茶だ!」と思いました。しかし経験を積むにつれ,「なるほど,こういう重負荷をあえて課して,それを撥ねのけてきた子だけをすくいあげて伸ばしていく仕組みなのか」と得心が行きました。そのやり方に対する賛否は別として,確かにこれはこれで合格実績を伸ばす一つの手法でしょう。


 この業界ではこんな言葉があります。
「いかに生徒の成績を伸ばすか,が重要な命題なのではない。いかに合格する子を集めるか,が大切なのだ」

つまり,「合格する子」はどこの塾に行っても合格する。塾の力で難関中学に入るのではない。したがって肝心なのは,そのような「合格する子」をいかに集めるか,なのだ,ということです。なんだか夢も希望もないような言葉ですが,でもこれは塾ビジネスのキモを巧く言い表している箴言なのかもしれません。


 さらにサピックスの教材はどれもこれも解説が不親切と来ている。こうなると誰か専門家に頼らないとどうにもならない,と思うご家庭が出てくるのは無理もないことです。しかも6年生でありながら1学期までは火・木・土の週3回の通塾しかない。希学園が週6日通塾日を設けているのとは対照的ですね。2学期以降も日曜学校別が加わるだけで,月・水・金はお休みのままです。こうなると家庭教師もつけやすいということになります。


 このサピックス,以前はもっと「肉食系」というか「やんちゃ」でした。父母会で「6年生の3学期(1月)は小学校は行かないでください。風邪がうつりますから。始業式は行くのは仕方ないとしても,2月の入試が終わるまで全休させてください」と公言したり。α(アルファ。最上位クラス)の先生が病気で休んだときに代講に来た先生を野次り倒してしまったとか。(「よくそんなんで給料もらえるな」とか皆で口々に言って授業にならなかったそうです)先生が授業中に「君たちは将来,中核となって日本を動かすんだ。パンピー(一般ピープル)とは違うんだぞ」と選民意識を植え付けた,とか。

 しかし最近は,業界をリードする自覚が生まれたのでしょうか,ここ数年は例えば6年1月の過ごし方にしても「できるだけ普段通りの生活が望ましい。学校を休むことは奨励しません」と,ごく常識的なコメントに変わりました。


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 肝心の入試報告会に話を戻します。
 そんな業界のリーディングカンパニー。当然,報告会も期待して行きました。ところが,あらららら,演壇に立つ先生方の話しぶりもたどたどしく原稿の棒読みで「おいおい大丈夫か」という感じ。スクリーンを使ってのビジュアルな説明もなし。資料も充実度は三塾の中で3番目。ひと言でいえば期待はずれでした。


 いや誤解しないでください。僕は何もこの場でサピックス・バッシングをしようという気はありません。それどころか,サピックスのメソッド(=カリキュラムと教材)は難関校を受験するにあたって非常に有効です。それはひとり僕だけではなく多くのプロの先生たちが認めるところです。

 あるとき,今から数年前ですが,知り合いのプロの家庭教師&塾講師の先生方で飲んだことがありました。そのとき,「自分の子供を通わせるならどの塾がいいか」というテーマで意見を募ったところ,11人中7人がサピックス,2人が日能研,そして四谷と早稲アカが1人ずつでした。「それはなぜ?」と聞くと,やはり「カリキュラムと教材が一番よい」と。えっ,僕自身ですか?僕は尋ねる側だったのでその11人には入っていませんが,うちの子供がついていけるならやはりサピックスがいいでしょうね。日々の教材をはじめとして「やること」に無駄がなく一番ツボを押さえている感じがするからです。ただ,親がつきっきりで教えなくてはついていけないのだったら,そんな状況ではどのみち難関校になんか入れっこないですから,一人である程度こなしていける他塾に通いなさい,というでしょう。
 

…うーん,このギャップ(教材やカリキュラムの素晴らしさ⇔報告会の内容の貧弱さ)は何なんでしょう。結局,サピックスの強さは教材とカリキュラムによるところが大きく,マンパワーの点では他塾とさして変わりない,ということなのでしょうか。それともリーディングカンパニーとしての地歩をすっかり固めた余裕のゆえに,入試報告会にさしたる力を注入しなかった,ということなのでしょうか。


ちょっと残念な報告会でした。


 まとめると
「イベントとして報告会を楽しみたい」⇒日能研
「資料が充実しているところがよい。また今年度の動向や傾向をきちんと知りたい」⇒四谷大塚
「今を時めくトップ塾の雰囲気を味わいたい」⇒サピックス

ということになるでしょうか。


 最後に。
 これはどの塾にも共通して言えることですが,今,入試報告会は,地域に分かれて複数回開催されていますね。例えば渋谷と中野と津田沼と大宮と藤沢…というように。でも,どうせ複数回開催するなら志望校ごとにしたらどうかと思うのですが。つまり「男子御三家」「女子御三家」「栄光・聖光・海城・巣鴨・芝・城北・本郷」「豊島岡・浦和明の星・鴎友・吉祥・フェリス」「大妻・共立・実践・山脇・女学館」「青山学院・中央大付属・明大明治・法政大学・立教池袋&新座・成蹊」みたいな感じで。その方が,どう考えても,話す方も聞く方もメリットが大きいと思うんですけど。