(2)ベント,そして水素爆発
その後,福島第一原発は格納容器内の空気を外部に排出する作業―ベント―を行います。このベントにより,相当量の放射性物質が大気中に放出されました。それらの放射性物質は折からの南東からの強い風に乗り,原発北西方面に広範囲に降り注ぎます。
ベントによって,格納容器が内部圧力に耐えられず爆発するという最悪の事態は避けられた。しかし現場の安堵感は一瞬のことでした。12日15時36分,つまりベントの成功が確認された約1時間後,原発内に爆発音が響きます。格納容器内の燃料被覆管にあるジルコニウムという物質が熱で溶けると水と反応して水素が発生します。その水素が酸素と反応して爆発を起こすのが水素爆発ですが,この水素爆発が建屋内で起こったのです。
「吉田たちにとって,目の前が真っ暗になる最悪の事態だった」(本書92ページ)
官邸も茫然自失となります。それもそのはず,原子力安全委員会の斑目委員長は,管総理に「水素爆発はあり得ない」とはっきり断言しているのです。
「『テレビを見てください!』首相官邸の5階の秘書官室にいた寺田学首相補佐官は,絶叫のような声にびっくりして振り返った。官邸にいる総理秘書官付きの事務官が『日テレを見てください』と大声を上げた。
画面には1号機が爆発する様子が映っていた。(中略)火花が散ってもうもうと噴煙が巻き起こっていた。
慌てて寺田が隣室の総理執務室に入ると,首相は福山官房副長官と原子力安全委員会の斑目委員長と打ち合わせ中だった。1号機で白煙が上がっているという情報が入っていたため,管が斑目に質問し,斑目が「揮発性のものでしょう」と答えていた。
寺田が駆け込んだのは,ちょうどそんなときだった。『総理,原発が爆発しました』と言って,ひったくるようにリモコンを奪って画面を切り替えて映し出した。
衝撃的な映像が何度もリピートされる。管は絶句している。広報担当の下村健一内閣審議官が斑目に問いただすように聞いた。『斑目さん,今のは何ですか?爆発が起きているじゃないですか』
そのとき斑目は,福山の記憶によれば(中略)両手で顔を覆って,『うわーっ』とうめいた。頭を抱えたまま,そのままの姿勢でしばらく動かない。福山が『これはチェルノブイリ並みの事故ですか』と聞いても返事がない。
一部始終を目撃した下村にとって,生涯忘れることのできないような衝撃的なシーンだった。これが日本の原子力の最高の専門家の姿なのか―そう彼は思った。(本書94ページ)
「菅はこのあと東電の誰かに電話したようだった。電話の相手は『いま現場で確認中です』と答えたようだった。管がいらだって『確認するって言ったって,現にいまテレビに映っているじゃないか』というのを執務室にいた下村が聞いている」(本書96ページ)
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(3)3号機そして4号機でも爆発
12日の18時ころ,管総理が海水注入を決断します。とにかく,水を注入して炉を冷やさないとならない。本来は真水が望ましいものの,電源を失い,冷却水の循環システムの再稼働のめどが立たない以上,手近にある海水でもなんでも炉心を冷やせるものならないよりまし,という判断だったのでしょう。海水を入れることによって腐蝕する可能性もありますが,背に腹は代えられません。現地も同じ判断をし,吉田所長の指示で19時4分,海水注入が開始されました。しかしこの後すぐ,東電本社から海水注入にストップがかかります。官邸から正式なゴーサインが出ないうちに勝手に着手してはまずいのではないか,という判断でした。しかし現場の吉田所長はやっと開始した注入を止める気はありませんでした。
「それ(海水注入を停める指示)を聞いた吉田は従わなかった。やっとスタートできた海水注入をいまさら中断する気にはなれない。冷やし続けなければ危機が深刻化するのは自明の理だったからである。そのためには海水を注入し続けないければならない」(本書100ページ)
そこで吉田所長は一計を案じます。海水注入をストップさせたふりだけして,部下には注入を続けよ,と指示したのでした。
吉田所長は東工大の大学院で原子核工学を専攻,1979年に東電に入社しています。東工大の大学院卒と言えば十分立派な学歴ですが,東電の原子力部門は東大工学部卒が主流を占めており,彼はそんな中にあって主流にはなれなかったようです。
「彼ら一群の原子力村エリートと比べると,吉田は東工大の院卒とはいえ,発電所勤務の長い『現場の男』だった。1999年からの3年間は福島第二原発の発電部長を務め,2005年から2007年は福島第一原発のユニット所長として赴任している。」
「東電の原子力部門はその内部にお手もタコつぼ型のいくつもの小集団に分かれ(中略)東大工学部卒の『理論派』と呼ばれる一群のエリートが,長期的な原発立地計画を立て,東芝や日立製作所など原子炉メーカーと仕様を協議し,学会の動向を把握する。彼らは原子力部門では内部官僚的な職務をこなして出世街道を歩むため,原発の現場のことにはそれほど精通していない」
「(吉田は)現地採用の高卒の社員や『協力会社』と呼ばれる下請けや孫請けの男たちを使って,発電所を切り盛りする。そんな役目の『現場の男』だった」(本書36ページ)
今回の原発事故が本当の最悪の結果を招かず,どうにかぎりぎりの崖っぷちで踏みとどまったことは,本書を読む限り,多分に幸運が重なった結果だったということが分かります。その幸運の最たるものはこの吉田昌郎所長のような人物がその場に居合わせたことだったのではないでしょうか。
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時間軸を少し戻します。地震翌日の3月12日の土曜日,当然朝の段階でこの日の塾の授業は休講となりました。土曜日は家庭教師の仕事があったのですがそれもお休みに。塾はもともとこの時期は日曜の講習はなかったので,とりあえず月曜日以降どうするかは日曜日中に決定・連絡,ということになり解散。一緒に夜明かしをした同僚の先生たちも三々五々,帰路につきました。僕も,18時ごろだったか,自宅に戻ります。家に帰り「パパ,怖かったよ~」と抱きついてきた二人の子供を抱きしめ返したときの安堵感はおそらく一生忘れないでしょう。
その後,テレビをつけて続報を追いましたが,こんな惨事のまっただ中にありながら原発が大変なことになっている,という雰囲気ではなかったような記憶があります。津波の被害がとにかく甚大で,恐らくは万単位の犠牲者がでるだろうという警察庁の発表を聞きます。さらに「南三陸町では町民1万7千人のうち1万人の安否がわからない」とのニュースを聞き背筋が凍りついた覚えはあるのですが,原発に関連して今まさに「東日本滅亡の危機」の瀬戸際にいる,という報道はなされていなかった気がします。政府がパニックを恐れてすべてをつまびらかにしなかったのでしょうか。それともメディアがまだ事の重大さをこの時点ではきちんと認識していなかったのでしょうか。
食料を買いに外出し,ちょうどそのとき自家用車のガソリンが底を尽きかけていたので,近所のセルフのスタンドに向かった僕は,スタンドの手前で目を疑いました。50台程の車がスタンド前に長蛇の列を作っているのです。給油するまでかれこれ30分ほどかかりましたが,実はこの日給油できたのはものすごくラッキーだったことを翌週,痛感することになりました。
一日あけ,震災発生から3日目となった3月13日の日曜日。どのチャンネルを回しても,もちろん朝から震災一色です。確かこの日くらいから例の「AC(公共広告機構)」のCMが頻繁に見られるようになったのではなかったでしょうか。
各局とも,まずは地震と津波の被害を伝え,「さて,もう一つの懸念,福島第一原発です」と原発の問題は地震・津波のその次,という扱いでした。だから視聴者たる我々にもいまいち深刻さが伝わらない。加えて出てくる学者が押しなべて「建屋で起きた爆発は単に被膜から出た水素と酸素が反応したもの。いわゆる水蒸気爆発ではない。だからこれはチェルノブイリとは違う(そこまで深刻ではない)」と言う。
あの12日の各局のテレビに出ていた学者さんたちというのは,いったいどういう人だったのでしょう,今にして思えばあまりに楽観的な意見のオンパレードでした。そのテレビを観ながら僕は首をひねります。「自分だけはすべてをお見通しだった」という法螺を吹く気はありませんが,「そんな楽観的な見通しで本当にいいのか」と。 日記をつける習慣は自分にはありませんが,この13日に書き留めたメモがここにあります。
「確か,原子炉の燃料棒の温度は空焚き状態で放置すると2800℃くらいまで上がるのではなかったか。燃料棒を形成している外側(外殻)の合金の融点は確か1500℃。すると放っておくと外側の合金は融けてしまい,中のウランやプルトニウムがドロドロの状態で流れ出して原子炉の底に溜まる。溜まったウランは最悪の場合,再び連続的な核分裂状態となる。つまり再臨界。そしてさらに高熱化したウランは炉心の底部を融かし下に向かい,最後に格納容器の真下にある圧力抑制室の約3000立方メートルの水と触れる。3000tの水の中に3000℃近いドロドロのウランが落ちる。水は気化すると液体の状態に比べ1240倍に体積が膨張する。恐らく上部の格納容器や建屋はひとたまりもなく吹き飛ぶ。チェルノブイリの比ではない,人類史上最悪規模の水蒸気爆発。それは周囲に,何百年も人どころかあらゆる生物が生息できないほどの大量の放射性物質をまき散らす。直線で250kmの首都圏にはおそらく半永久的に人は住めなくなる…。本当にテレビが言うほど安心していいのか。自分の知識に誤りがあることを祈るが…」
昼前,近所のスーパーに買い物に行ったとき見た光景は今でも忘れられません。カートにインスタントラーメンやミネラルウォーターを満載にした主婦の方々が,まさに目を三角にして走り回っている。比喩でなく,本当に店内をカートを押して走っているのです。その姿を見た瞬間,(ああ,当分,仕事の方はダメだな)と直感しました。受験指導なんて,言ってみれば世の中が平和だからこそできるものです。
夜,翌日14日以降の計画停電実施の発表がありました。午後イチに塾から,ひとまず春期講習会までの期間を臨時休講にする旨の連絡がありました。家庭教師のご家庭とも連絡を取り合い,14日から始まる週の授業は全部お休みに。時給と言うか日給と言うか,固定給ではない自分にとって痛いは痛いですが,未曾有の大惨事の後です。仕方がありません。
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1・2号機に加え,3号機も13日午前3時過ぎに冷却機能を失います。そして3月14日(日曜日)午前11時,3号機が水素爆発。しかし,日本中が唖然となったのは,15日火曜日に起きた4号機建屋の爆発だったのではないでしょうか。4号機の原子炉そのものは地震発生時,冷温停止中でした。だから1~3号機のような炉自体の「暴走」が起きる心配はない。それなのになぜ…!?
その原因は燃料棒プールでした。タービン建屋内に使用済み燃料棒を保管しておくプールがあり,そのプールに全長4mの燃料棒が4065本,沈められている。このプールの中の使用済み燃料棒も崩壊熱を出し続けるため,普段は冷却水を循環させて熱交換して一定温度に保っている。このポンプが地震と津波でやられてしまい,動かなくなってしまっていた。ゆえに当初プールを満たしていた水はどんどん気化して失われていき,燃料棒がむき出しの状態となる…。炉心の中の燃料棒はまだ分厚い格納容器に守られています。しかしこの4号機のタービン建屋内の燃料棒プールと外界を遮るのは,普通の倉庫に毛が生えた程度の建屋の壁しかない。やはりこのプールでも,ウランやプルトニウムがそれぞれの燃料棒から漏れ出たら再臨界の可能性があります。しかも今度は外界の大気にむき出しの状態で核分裂が進むことになる。その危険度は1~3号機の比ではないかもしれない…。そんな解説をテレビで聞いたとき,僕は思わず声に出して「ふざけるな!」と叫んでしまいました。そんな馬鹿なことってあるか!燃料棒をむき出しに近い状態で4000本以上もストックしている?それも建屋のプールの中だ?そして水がなくなってしまって再臨界するだと?いったい東電と経産省は今まで何をやっていたんだ。彼らのリスク管理はどうなっているんだ。東電,原子力安全保安院と言ったら自分が逆立ちしたってかなわない,エリート中のエリートの集まりじゃないのか?電気で動くものは電気が止まれば当たり前のことだが,動かない。じゃあ電気が止まったときにはどうするか。そんなこと,小学生だって考えるものだろう!
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