一つの見出しがにわかホームズの好奇心を刺激する。
〈市営競馬 開催延長に努力〉
 一九六七(昭和四二)年三月五日の「三鷹市報」(第三七九号)に大きな文字が躍る。記事は当時の三鷹市長・鈴木平三郎の言葉を次のように伝えている。
 「ギャンブルをよいとは誰一人として思う人はありませんが、(中略)都市建設と下水道推進、学校鉄筋化等の財源獲得のために、理念に相反しても精魂を傾けて働かなければならないのが市の最高責任者としての心の悩みであります。それが市長に与えられた任務でもあります」
 三鷹市営競馬は戦災復旧を理由として、一九五二(昭和二七)年から一九六八(昭和四三)年までの十七年間にわたって毎年二回十一日間実施された。競馬場はどこにあったのか、どんな競馬場だったのか、どんな馬がいて、どんなレースが開催されたのか。そして、なぜ消えたのか。このまちにかつて存在した競馬場の足跡をたどることにした。
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 三鷹市が競馬を開催した初年度の収益金は三千万円。以降、毎年順調に競馬事業の収益は増加した。この日の市報には、「(昭和)四一年度の収益金は三億五千万円が見込まれる。四二年度は四億円が見込まれ、四三年度以降はそれ以上が見込まれる」と添えられている。
 当時の三鷹市の市税収入はおよそ十五億円。今後も収益増加が期待できる競馬の開催権を失えば、市政運営に大きな痛手となる。財源がなければ都市計画は進まない。のちに「下水道普及率一〇〇㌫」を達成した市長として名を残すことになる鈴木平三郎をして、「理念に相反しても」と打ち明けた心の悩みは、まさにその点にあった。
 しかし、鈴木が市報で開催延長を訴えた翌年。改正競馬法の施行により、三鷹市を含む全国五十余りの市町村が競馬開催の指定を外れ、市営競馬は廃止された。(続く)

(『そよかぜ』2020年6月号/このまち わがまち)