タイトルをつけるとしたら「ホームズの空振り」だろうか。それでも自ら広げた風呂敷だ。最後まで話を続けよう。
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 三鷹市営競馬は一九五二(昭和二七)年から六八(昭和四三)年までの十七年間、毎年春(四月)と夏(七月から九月の間)の年二回十一日間(十二日間の年もあり)、一日一レースが開催された。
 昭和二七年二月十五日の『三鷹市報』に、議会で可決された三鷹市競馬条例が載っている。その第二条には「市の行う地方競馬の競馬場の位置及び名称を左の通りとする。東京都品川区勝島町 東京都大井競馬場」。三鷹市内に競馬場があったのではないか、という推理はあっけなく外れた。
 初開催の四月、入場者数は六日間で三万九六四一人。春競馬が終わるとすぐに五月の市議会で「豪州産競争適格種馬の購入」が決議され、さっそく八月の第二回レースに一頭出走している。馬の名前は残っていない。
 第二回となる八月の競馬は六日間で五万九六四三人を集めた。実にこの年の三鷹市の人口五万九六八七人とほぼ同数である。もっとも、競馬開催初日には三鷹駅南口から大井競馬場までの無料バスが一便だけ運行されていたというから、三鷹市民のうち競馬場へ出かけた人の数は知れている。
 三鷹市営競馬は一九六八(昭和四三)年三月をもってその幕を下ろした。当時の三鷹市長、鈴木平三郎のいう「ギャンブル」による収入は途絶えたが、その後三鷹市は全国に先駆けて下水道普及率一〇〇㌫を達成するなど、生活インフラを着実に整備していくことになる。(完)

(『そよかぜ』2020年8月号/このまち わがまち)