昭和の中頃まで大沢にわさび田があった――。このまちで暮らしていればどこかで一度は話に聞くが、この目で清流にゆれるわさびの鮮やかな黄緑色を見たことはない。大沢のわさびはどこにいったのだろう。
 * * *
 いまを遡ること二百年余り、江戸は文化・文政のころ。伊勢から江戸へ出てきた小林宮吉が大沢の名主を務めていた箕輪家に婿入したことがはじまりだった。のちにわさび農家として活躍する箕輪分家の初代・箕輪政右衛門である。
 大沢に豊かな湧き水が出ると知った政右衛門はわさびの栽培を思いつく。段をつくり、砂を掻き、水の流れを整えた。二代目、三代目と受け継がれたわさび田は明治のころには神田や築地の市場で商売をするまでに成長した。
 大沢のわさびは伊豆のものに比べると小ぶりだが、味は上物で人気があったという。四代目・源清のあつらえさせた「箕輪 山葵店」の法被は往時の賑わいをいまに伝えてくれている。
 五代目・一二三、六代目・清のころになると大沢の地域にも少しずつ宅地開発の波が押し寄せ、野川のハケからの湧き水が枯渇するようになった。
「わさびは水がたまるとダメなんだ。水が流れるように砂地に石を置くのさ」
 野川のハケは豊かな湧き水と適度な土砂と傾斜を生み、わさび栽培に適した土壌をもたらす。きれいな水、冷たい水、流れる水。わさびの生育に欠かせない水が枯れるとき、わさび田も枯れる。わさび田は昭和四十年代を過ぎるころにはすっかり減少してしまう。いまに残るのは箕輪家の母屋をよみがえらせた大沢の里古民家と、わずかながらのわさび田の復原活動だけだ。
 * * *
 大沢のわさび田の在りし日を知る人も少なくなった。記録もほとんど残っていない。かろうじてたどれる記録と記憶の糸をたどりながら、大沢のわさびを追う。(つづく)

(『そよかぜ』2020年11月号/このまち わがまち)