西調布駅北口を出て郵便局の路地を飛田給駅方面へ歩くと、中央道の高架下に道をはさんでふたつ公園がある。北側のほうの脇に立派な石碑が鎮座している。
「石原分教場跡地」
 碑文の日付は昭和五十六年とあるから、いまからちょうど四十年前に建てられたものだ。沿革を読む。
「安政五年、布田五宿と言われた頃、この上石原宿に秋月堂という私塾が開設された。
 明治五年、学生発布により開心学舎となり、明治八年、各学舎の名称を学校と改めよとの布達で石原学校と改称した。
 明治十年、石原、布田、国領の三校が合併して調布学校となるが、十七年、通学事情などにより分裂し、十九年、私立石原尋常小学校を開校、二十四年、町立となり、二十九年八月、この地に新校舎を建てた。
 三十四年、ふたたび三校の統合と高等科の設置により、調布尋常高等小学校石原分教場となった。
(中略)昭和十六年、学校令で国民学校と改称され、二十二年、調布第一小学校分教場となり、二十三年には町の人口増加に伴い、調布第三小学校が新設されてそこに属し、二十六年、本校の増築により、ついに九十三年間の歴史をもって閉校となった」
 明治から昭和の戦後まで激動の時代にあって変わりゆく調布地域を教育の分野で支え続けた場所の記憶である。そして、ひとりの女性の名が刻まれている。
「明治三十七年十月、中村やす先生が就任され、以降、昭和二十六年の退職まで四十八年の長い間教鞭を取られた」
 分教場が最後に属した調布第三小学校の校庭には今もやすの頌徳碑があり、歌が刻まれている。

 別れても 子ら皆とは幸くあれ 踏みな違へそ人の世の道

 石原分教場出身者一同が後世に名を残したいと願った中村やすとはどんな人物だったのか。知りたくなった。(続く)

(『そよかぜ』2021年2月号/このまち わがまち)