今号でそよかぜの三代目担当者として十年目の春を迎えました。ここまで続けることができたのは、読者のみなさまからの温かい励ましの声と、毎月の原稿を〆切ぎりぎりまでがまん強く待ち続けてくださっている奥浜所長あってこそ。この場を借りて心から感謝申し上げます。次の十年も元気にさわやかにがんばりたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
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 中村やすの話。
 一八八三(明治十六)年、茨城県生まれ。横浜山手捜真女学校を卒業後、教員になる。明治三七年、調布尋常高等小学校の代用教員となり、石原分教場で教べんを執る。翌年、調布町(当時)の町長を務めた医師の中村市郎と結婚。明治、大正、昭和と激動の時代を生きる。戦後になると昭和二三年、市内の人口増加にともない調布第三小学校が新設。昭和二六年には校舎の増築により分教場は廃止となり、やすも四十八年にわたる教員生活を辞した。この間、分教場の教員はやす一人であった。
 分教場には小学校一年生と二年生が通い、三年生になると本校に通った。教室は二部屋。当時の記憶によると、ひと部屋には机を置かず中央に大きな木の火鉢が据えられ、集会場の役割を果たしており、もうひと部屋で一年生と二年生およそ五十名がいっしょに机を並べて勉強したという。
 一九六九(昭和四四)年、やす死去。享年八十六歳。
「わけてえらい人をつくるつもりはない。どの子も同じように育ってほしい」
 やすの教育信条を受け継ぐ形で調布市青少年交流館が建てられたのは、それから三十四年後の二〇〇三(平成十五)年のことだった。
 桃割れの髪に紺袴。やわらかい眼差しの奥に決然とした愛情。子どもたちの幸せを願い、人の世の道を踏み違えることのないようにと願ったやすの目には、いまの時代が悲しく映っているような気がしてならない。(完)

(『そよかぜ』2021年3月号/このまち わがまち)