虎狛山日光院祇園寺。天平時代の開山というからいまから一二〇〇年も前のことだ。以来、この場所で幾星霜を重ね、住職がいない時期も長くあった。荒れ寺として人々からいつしかその名を忘れられていった。
 その寺が一躍脚光を浴びたのは明治の元勲、自由民権運動の象徴でもあった板垣退助との関わりだった。
 いまを去ること一一三年前、一九〇八(明治四一)年九月十二日。自由民権運動に殉じた者たちの法要を祇園寺で執りおこなうことになり、退助率いる自由党員一〇〇〇人余りが押し寄せた。ある者は徒歩で、ある者は馬車で。まだ鉄道(のちの京王線)が通る前の甲州街道を自由党の旗が次から次へと連なり祇園寺を目指して動いてゆく――。
 さて、久しぶりににわかホームズの出番である。
 一〇〇〇人もの参列者は帰り道にどこを通ったか。当時の演説はひとり一時間ほど話す。法要がはじまったのが昼だとしても、すべての演説が終わるころにはとっぷり夕刻だ。新宿まではとても帰れまい。野川をわたって布田の宿で酒席でも設けるか。大橋をわたってぞろぞろと帰る。演説で気持ちが高ぶった誰かが、小さな橋を渡るとき「諸君、これは自由の橋だ!」と叫んだ、かもしれない。
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 法要のあと、演説を終えた退助が赤松の苗木を植えた。いまなお祇園寺の境内には「自由の松」として二本の赤松が空を指している。(完)

(『そよかぜ』2021年9月号/このまち わがまち)