「何度も何度も相談事が続くと、聞く側はストレスの副流煙を常に受動喫煙させられているようなもので、お金をもらってもやりたくないほど憂鬱な作業となるだろう」

―― 綿矢りさ『怒りの漂白剤』

綿矢りささんの比喩は、的確かつ共感ができて、あまりの見事さにいつもため息が出る。胸のつかえが下りたような爽快さと、思わずクスッとしてしまうようなユーモアと毒気がある。たしかに、自分が相談している(喫煙している)側だったら、ストレスや悩み事を吐き出して、スカッとするかもしれないが、相談を受けてる(副流煙を吸っている)側は、ネガティブな感情やストレスが蓄積されていき、気が滅入ると思う。

 

生きていれば、誰かに相談事をしたり、されたりすることはあるだろう。仲良い友だちから相談事をされたら、真剣に向き合って話を聞く。〈話を聞いてほしい〉と思われていることを誇らしく思う。ただ、「自分だけではよく分からない(決めかねる)事について、他に意見を求めること」が相談の本質だとしても、相談する本人の中ではだいたい結論は決まってるもの。アドバイスされたいというよりも、共感してほしいという気持ちが強いことがきっと多いはず。

 

厄介なのは、相談がいつの間にかただの愚痴へとすり替わっている場合だ。共感できるのなら、まだ負担は少ないし、自分自身うちに溜まっているものを発散できるのかもしれないが、理解の及ばない愚痴を聞かされるのはただの苦行。同様に、一人で入ったカフェで、隣のグループが延々と仕事や恋人の愚痴を言っていたら気分がいいものではない。それこそ、ストレスの受動喫煙だ。

 

そもそも愚痴とは、仏教用語のひとつで、「貪欲・瞋恚・愚痴」を示す「三毒」からきている。「欲張り、怒り、愚かさ」を表す言葉で、「愚痴」は文字の通り「愚かさ・無知」を意味している。愚痴ることは、自分の愚かさを振りまいていることと同じことになる。

 

愚痴にあたるもやもやを、ため込みすぎは自身の体を蝕み、むやみやたらに放出しては、周りを憂鬱にさせてしまう。ただ、ときには「愚痴をこばしたっていいがな。弱音を吐いたっていいがな。人間だもの。」(by 相田みつを)。そうそう聖人になれるわけではないから。共感してもらえる人に、ちょこっと愚痴をこぼしつつも、周りの人にストレスの煙害を与えない程度に発散と、悩みの解決ができたらいい。

 

くらもとよしみ