「ある」というのは、目の前になにかが存在している、という意味だけにとどまらない。また、なにかがある、というとき、そのなにかは物体とも限らない。たとえば、愛がある、とか、殺意を覚える、とか、カタチのない存在だって、たしかに、そこに「ある」。負けられない戦いがそこにある――。それだって、具体的なカタチとして目の前に現れるのはサッカーなり野球なりの試合そのものであって、戦いという抽象的な存在は、目に見えないけれど、「ある」。すなわち、「ある」というのは、カタチのあるものも、ないものもひっくるめて、なにかが「ある」状態をいう。
かつてなにかが「あった」とする。きょうを生きている誰一人として、自分の目で見たり、耳で聞いたり、触れたりしたことがないのに、たしかに「ある」と言い切れるもの。たとえば、昨日。昨日がほんとうにあったかどうかをどうやって知ることができるだろう。おとといはどうか。10年前は。100年前、1000年前、1万年前は。100万年前、1億年前、10億年前。ほんとうにそんな前から地球があったのかどうかなんて、ほんとうは誰も知らない。すなわち、「ある」というのは、自分が直接経験したわけでもない過去をもひっくるめて、なにかが「ある」状態をいう。
未来についても同じだ。あしたが「ある」かどうかなんて知る由もない。自分自身であしたがちゃんと来たかどうかを確認することもできない。そのときには、あしたではなく、きょうになっているから。こういうふうに考えていくと、「ある」というのは、目の前にあるものだけではなく、目の前にないものも「ある」の中に入っていることに気がつく。さらに過去も現在も未来も「ある」の中に入っていて、それはつまり、空間も時間も「ある」に含まれているということだ。
さて。わたしたちはいま、「ある」世界に生きているのだけれど、「ある」世界はひとつしかないわけではない。もちろんそうだ。自分が見たことも聞いたこともない存在を「ある」と言い切った以上は、自分が見たことも聞いたこともない世界が「ある」ことを受け入れなければならない。それはどんな世界か。たとえば、パラレルワールド。もしあのとき別の選択をしていたら、というあれだ。その別の選択をした自分が生きている世界がある。そんな世界が実在するなんてありえない。とは、もう言えないことに気がつく。見たことも聞いたこともない世界が「ある」ことを認めたばかりだから。
自分自身が計り知れないところにも、世界は「ある」。いまこうして文字を追っている最中に、どこかに赤ん坊がいる。その赤ん坊は泣いているかもしれないし、笑っているかもしれない。そのどちらであっても、いまの自分には計り知れない。しかしむしろ、計り知れないということは、そのどちらでも「ある」ということだ。量子力学の世界にシュレディンガーの猫というたとえ話がある。箱を開けてみないと猫がいるかどうかわからないのだから、それはつまり、いる(猫がいる世界)といない(猫がいない世界)の両方が同時にある(成立している)状態だ、という。「ある」というのは、なにかがあったり、なかったり、も含めて、「ある」ことを意味している。
なにかがひとつしかない世界から、ありとあらゆるものがある世界まで、「ある」の幅は無限に広い。その無限にある世界のなかの、とある世界をいま、わたしたちは生きている。そして、これからも無限に枝分かれし続けていく世界の中のうちの、とあるひとつの世界を選んで生きていく。たとえば、あるひとつの重大な決断を下したとする。その重大さはどのくらいのものだろうか。無限にある世界の中で、その決断を下した世界と、そうでない決断を下した世界との差はどれくらいあるだろうか。
ここまでのところで、「ある」世界のイメージが少しつかめた。こんどは「ない」世界について考えてみよう。単に、「ある」世界の対極が「ない」世界、ではない。「ある」と「ない」は世界の仕組みの中で共存しているからだ。むしろ、なぜ「ない」世界が必要なのか。「ある」世界だけでは十分でないのはなぜか。それを問うことで、世界の仕組みの核心に迫ることができる。
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この世界の仕組みと、この世界でどう生きるかは、密接に関連しあっているけれど、本質的には別の問題だ。まずは世界の仕組みを理解する。そして、その仕組みにうまく合った生き方を実践する。「遠きに行くには必ず邇(ちか)きよりす」。ものごとには順番がある。
H・ヒルネスキー