いま仕事で中国古典に関するテキストを作成している。そのために中国古典関係の本を読みあさっているのだが、まあおもしろい。人間の悩みなんて2,000年以上前からたいして変わっていないし、それを解決するための知恵や手段も、とうの昔に先人たちが授けてくれていたことに気づかされるからだ。

中国古典のよさは、データベースの容量が桁違いに大きいことだ。なにしろ、3,000年だか4,000年の歴史と広大な土地をもつ国が長年にわたって積み上げてきたデータベースなので、他国の古典と比べても情報量が半端なく多い。だからこそ、いまの自分にとって必要な教えに出会いやすいという魅力がある。

数ある古典のなかでいま私が一番興味をもっているのが『中庸』という思想書だ。「中庸」の意味を理解するのは難しく、私もまだ理解しきれていない。解説書や専門家は「偏らないで、過不及のない状態」「右でも左でもない、ほど良い中ほど」「本質をつかまえて、その場で一番いい判断をする」などと説明しているが、これだけ聞いてもよくわからないと思うので、自分なりの「中庸」の理解を具体例とともに示したい。

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ちょっと前にサイボウズという会社の「がんばるな、ニッポン。」というCMが話題になった。このCMにかぎらず、最近いたるところで「がんばるな」というフレーズを目にする。長時間労働や非効率な働き方に異議をとなえる人が増えたことのあらわれだろうが、どこか違和感をおぼえずにいられない。

たしかに、心身を壊すほどの激務やストレスに追われているなら、それ以上がんばりすぎないほうがいい。一方で、がんばるべきことはがんばったほうがいいし、人間どこかでがんばる時期も必要だ。メリハリといってしまえばそれまでだが、それができない人が多いからこそ、心身を壊すまでがんばりすぎる人も、やるべきことをやらずに手を抜く人も減らないのだ。

「がんばるな」の意味は、「ムダながんばり」をやめろということだ。サイボウズのCMでも、「通勤のがんばり」の無意味さが訴えられている。実際、コロナ禍でテレワークが普及したことで、多くの人が自宅でも働けることを実感しているだろう。必要ながんばりと、ムダながんばりを見極める。これこそが「がんばる」の本質をつかまえることであり、中庸の実践だと思う。

 

日本人はどうも極端な思考にはしりやすい民族らしい。単純明快を好み、物ごとを一面的に見るから、「ゼロか100か」「白か黒か」といった極端な思考にはしりやすくなる。その性質が極端にふれると「自粛警察」をはじめとする妙な正義感にいきつく。

 

私などはそのいい例で、昔「がんばらなくていい」という言葉を真に受けて、すべてのがんばりを放棄してしまった時期がある。もちろん、そのしっぺ返しを後でさんざん受けることになったが……。なにかと極端な方向へはしりやすいいまの世の中に、中庸の思想が広がってほしい。

 

マリエ・アントワネット