隠れ切支丹とポルトガル人宣教師の苦悩を描いたマーティン=スコセッシ監督の映画『サイレンス(沈黙)』を観て、共存と調和について考えさせられた。
ひとりの宣教師が苦悩の果てに棄教を余儀なくされ、日本人として寺で暮らし、仏教の教えを学ぶようになり、この国は自然の内にしか神を見いだせないから、キリスト教は根付かないだろうと語る。たしかに、古くから日本には八百万の神々の存在が根付いており、自然界のあらゆる場所に神々がまつられている。小さな島国で突然キリスト教の概念を語られたところで、すんなりと受け入れることは難しいだろう。しかし、互いを尊重し共存することで新たな文化が花開く。自分と違うものを嫌い、迫害しようとするのは愚かなことだ。共存と調和がもたらす新たな可能性を想像することが大事なのに――。
人間界において共存と調和は重要な要素であるが、自然界はどうだろうか。外来種と在来種は滅亡と調和を繰り返している。日本人が愛するソメイヨシノや、一青窈(ひとと・よう)の歌でも馴染みのあるハナミズキは外来種だ。これらの植物が根付くことで新たに発生する虫や、滅びてしまう日本の在来種がいる。共存と調和はそんなに簡単なことではない。
食生活が変わったことで若者の体格や体質が年々変化しているのと同様に、生物もまた多様化している。しかし、人間の勝手で自然環境を滅ぼす(多様化させる)のは話がちがう。自然の摂理の中で生物が生命を受け、育っていく。その土壌に適した生物であればのびのびと育つだろう。しかし、その土壌に似合わないものを育てようとすると不自然な力が必要となる。その不自然な力のせいで滅びるものがいるということになる。もともとある生態系は必要最低限の弱肉強食を知っている。外来種を用いてそれを壊したのは調和を知らないわたしたち人間。
人間の暮らし方も同じ。自分たちに適した気候、適した場所で生きれば不自然な力も余計な抵抗も生まれないはず。温暖な気候が合うなら西日本や沖縄や離島を選べばいい。人との関わりが苦手なら人の少ない地域に住めばいい。虫が嫌いなら都会の真ん中に住めばいい。殺虫剤やあらゆる不自然な力を駆使してまで、その場所で暮らそうとするから自然を滅ぼしてしまう。自分に似合わない環境がストレスを産み、毒をまき散らす。人間のエゴは加減を知らないから。
世界中でいまもなお繰り返される人間同士の争いは調和でしか救えない。人間と自然の争いは互いの領域を守りながらの共存でしか救えない。加減を知らないわたしたち人間は共存と調和を常に意識しなければならない。共存と調和を両立できるのも人間だけ。この力を、可能性を失わないでほしい。
sakin.