中学校の国語の先生に言われて、いまでも覚えている言葉。同じころに習ったであろう因数分解や化学式は全然覚えてないのに、この言葉はよく覚えている。国語の先生らしく余白のある言い回しだと思う。
「イントロのところ、○○っぽいな」
「△△の二番煎じ」
「**のパクリ、没個性(笑)」
若手バンドのミュージックビデオのコメント欄なんかで、ときどきそんな感想を見かける。どうしても若手は、すでに活躍している有名アーティストと結びつけて比較されがちだ。そのコメントは、ただ純粋に思ったことの発信だろうが、音楽知識の誇示や悪意、自分が実行できてないからこその妬みがちょこっと含まれている気がする。
「○○っぽい」と言われるゆえんは、たいていその若手が、○○にあたるアーティストのファンであることが多い。学生時代よく聴いていたとか、そのアーティストに憧れて音楽始めたとか、コピーバンドやっていたとか。特に、創作し始めは、似せようとしなくても、好きなものの特性が色濃く出てしまうものだろう。もし、「好きなものとは違う方向性でいこう」と本人が決意しても、「違う方向性」にした時点で、少なからず影響は受けていることになる。好きなものにまったく影響を受けずに創作することはできない。でなければ、そもそも好きになんてならないはずだから。
何も真似をしたくないと思う者は、何も生み出さない。
これは、国語の先生ではなくて、画家のサルバドール・ダリの言葉。インパクトのある摩訶不思議な世界観を描き、自分自身細いチョビ髭という個性的な見た目をしながらも、初期作品は模倣に近いものばかりだったらしい。真似をする中で、自分の特性を見つけ出し、個性として磨き上げていく。結局のところ、ものを生み出すときは、すべて真似から始まるのだと思う。そこから、「自分らしさ」を確立できるかは、その人次第。
誰かに似ていることは悪くない。リスペクトする気持ちがあるのなら、思いっきり真似をしたっていい。没個性、二番煎じ、上等だよ。まだまだ個性を磨き上げる途中なのだから。誰かを真似て真似て、その中で「自分」を見つけ出し、真似した部分を捨てていく。そうしてできた、誰でもない「自分」でありたい。
くらもとよしみ