歩道の隅に靴の底だけ落ちていた。靴そのものではなく靴の底、ソール部分だけ。なぜ、そこ(底)だけ? 道端で「人」の字になって寝そべってるイヤホンや、公衆トイレの化粧台で凛と佇む口紅、植え込みに居心地悪そうに置かれたハンカチ、どれもこれも持ち主がいたはず。靴底だって、誰かの持ち物だったモノ。

落としモノは「気がつかずに落としたもの」で、忘れモノは「持っていくはずのものを、うっかりどこかに置いたままにすること、またはそのもの」と辞書には書いてあった。似ているようで微妙にニュアンスが違う。

 

電車の荷物棚に置きざりにされたお土産は忘れモノ。改札を出るときにないことに気づいた定期は落としモノ。椅子の端っこに立てかけられたままのビニール傘は、忘れモノ、いや、もしかしたら捨てられたモノか。大切にしていようがいまいが、ないことに気づこうが気づくまいが、すべて同じ〈遺失物〉という扱いになる。
 

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小学校低学年のころ、お気に入りだったコインケースを落としたことがある。中身は500円入っているか、入っていないかくらいの金額で、残念ながら戻ってこなかった。そのときはお金のことよりも、お母さんに買ってもらったキャラクターもののコインケースを失くしたことのほうがずっとショックだった。

もし、いま財布を落としたら、金額は違えど、中身のお金とクレジットカード、免許証のほうを心配するだろう。それは、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、そう思ってしまった時点で、なにか〈大切なもの〉を落としてしまったような気もする。子どもの小さな手のほうが、大人よりも、手放してはいけないものを本能的に知っていることがきっとある。


音楽を聴いてるとき、本を読んでいるとき、外ではしゃいでいる近所の子を見かけたとき、たまに自分の中の忘れモノや落としモノに気づかされて、はっとなる。それが、自分にとって必要なものなのかはわからない。けれど、せっかく気がついたのなら、まだ持ちきれるあいだは、拾いに戻るのもありなのかもしれない。たとえそれが、自ら捨てたモノだとしても、〈大切ななにか〉を持ち主不明の〈遺失物〉にしないために。

 

くらもとよしみ