2022年から高校で「公共」という科目が新設されるのをご存知だろうか。先日仕事で「公共」という科目が担う役割や、親設されることになった経緯などを専門家から聞く機会があった。「公共」という科目を知れば知るほど、自分が高校生のときにこの科目があってほしかったと思わずにいられない。
「公共」は「主権者教育の一丁目一番地」といわれる科目だ。2016年に選挙権年齢が18歳以上に引き下げられたことから、主権者教育のさらなる推進が求められ、その主たる役目を担うことになったのが「公共」だといえる。とはいえ、「公共」は単に若者の政治意識参加を高めたり、投票率を上げたりすることだけを目指しているわけではない。一番大事なのは、一人ひとりが社会問題について多角的な視点から考察、判断できるようになることだという。
私が「公共」に魅力を感じるのは、現実の問題に対して、多角的な視点から考えることができる科目だと思うからだ。たとえばいじめ問題について考えるとき、道徳の授業では、客観的なデータにもとづいて考えるというよりも、思いやりでもって解決を図ろうとしてきただろう。しかし、思いやりだけで解決できるなら、いじめ問題はとっくになくなっているはずだ。
いじめに関する国際的な調査(2015年PISA調査)によると、日本で一番多いいじめの種類は「からかい」であり、成績の良い生徒ほど「からかい」によるいじめに遭っているという。いわば嫉妬ややっかみによるいじめが日本の特徴だということだ。また、いじめと家庭環境に関するデータによると、日本では恵まれた家庭の生徒ほどいじめに遭っているという。一般的に貧困は問題としてとらえやすいが、恵まれている子どもが差別に合うという問題は、道徳ではなかなか取り上げられないだろう。
これまで道徳の授業では、「弱い者いじめ」をなくすための議論が主だった。しかし、本当にいじめをなくそうとするなら、思いやりですべてを解決しようとするのではなく、客観的なデータにもとづいたうえで、多角的な視点からいじめ問題をとらえる必要があるのではないだろうか。「公共」がその役割を担えるのかどうか、これからも注目していきたい。
マリエ・アントワネット