ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。この曲から「美」というものを考えるようになった。

 

第1楽章の冒頭、ピアノの音色が繊細に奏でられる。一滴のしずくが湖の水面へ落ちるような、静かな音。つぎつぎとしずくが落ちていく。次第にしずくの重さは増していく。そこから生まれる音が湖を揺らす。水面へ落ちたしずくは混じることなく、いつまでも沈み続ける。この曲を聴いているとき、その湖の中にいるような感覚になる。そして、思い出す。

 

6歳のころ。祖母にクリスマスコンサートへ連れていってもらった。はじめての空間に戸惑い、ずっと祖母にしがみついていた。席についてもソワソワ。なんだか帰りたくなったのを覚えている。オーケストラの演奏がはじまると、いつの間にか、その気持ちは消えていた。経験したことのない楽器の迫力。大きな音から小さな音。高い音から低い音。いろんな音が身体に入りこむ。はじめての感覚だった。

 

当時の感覚と、大人になってからラフマニノフの曲を聴いたときの感覚は似ていた。音を聴いているというよりは、音の中にいるような。そんな感覚。それがとても美しく思えた。

 

人によって、美しさの尺度は異なる。年齢によっても、性別によっても、時代によっても。だから、「美」は存在しない。そうした考え方もある。しかし、それは表層的なもの。目に見えているものでしかない。真実の「美」は、そうした表層的な美の尺度によって、幾重にも覆われている。だから、「美」を感じるためには、深く考えるのではなく、感じたものを感じたままに。何が美しいか、何を美しいと思うのか、自分の感覚に正直なる。そうすれば、「美」はふっと現れるかもしれない。

 

「美」。正直、まだ不確かな感覚でしかない。自分の感じたものが本当に「美」であるかどうかもわからない。その抽象的な存在に疑問をもつときだってある。ただ、ラフマニノフがクラシック音楽の美しさを教えてくれた。そこに偽りはない。

 

岡部悟志