あ、そういえば。

 

雨の日に、幅の狭い歩道で、傘をさしたもの同士がすれ違ったときにふと思った。無意識のうちにしていた、自分の傘を外側に傾ける動作。そういえば、この動作にも名前があったような。「傘かけ」じゃなくて「傘かわし」でもなくて、なんだっけ。帰宅電車に揺られながら、ヒマな時間にちょっと調べてみた。

 

正しい名称は「傘かしげ」。傘同士がぶつからないよう、相手に雨水がかからないようする所作のことで、「江戸しぐさ」のひとつだという。江戸商人の行動哲学であり、人々が共生するための心づかい。ほかには、座席にて、あとから来た人のためにこぶしひとつ分腰を浮かせてスペースを作る「こぶし腰浮かせ」や、人とすれ違うときお互いに右肩を引いて歩く「肩引き」などがあるらしい。

 

半人分空いた電車の座席を眺めながら、さすが、江戸の人は粋だねぇ、と感心した。それも束の間、「江戸しぐさ」は虚偽だという文献が。江戸時代は、傘ではなく被り笠や蓑を身につけ、長椅子に座るような乗り物がなかったとの指摘があった。わたしの感動はいったい。目の前で、半人分の席に体をねじ込む人を見て、現代人による現代のためのマナーなんだな、と納得した。わたしは腕に引っかけていた自分の傘を、人の足に雨水がかからないように、そっと持ち直した。

 

帰宅後に、そういえば、と思い立って、新明解国語辞典(第七版)でも「江戸しぐさ」を調べてみた。ところがどっこい、そんな言葉は載っていなかった。「傘かしげ」も「こぶし腰浮かせ」も「肩引き」も。虚偽は書けないからなのか、新しい言葉だから書いていないのか、はたまた単純に単語の数が少ないだけなのか。うむ。広辞苑になら載っているのかもしれない。代わりに、「広辞苑」と引いてみた。載っていなかった。そんなばかな。

 

辞書にある言葉で/出来上がった世界を憎んだ

 

RADWIMPS「スパークル」

 

って歌っている曲があるけど、案外、世の中はまだまだ辞書にはない言葉でできてるのかもしれない。えっと、確か、曲の名は。「前前前世」じゃなくて、「なんでもないや」でもなくて、なんだっけ。まだ雨がやみそうもない外に視線をずらす。あ、そういえば、『天気の子』は観てないや。

 

傘を傾けただけで、知ったこと、気づいたこと、1000字を埋められるだけのことがある。横道を探検するように、「そういえば」を辿っていけば、ヒマな時間もつまらない時間もなくなって、ついでにちょっとだけ自分の世界を広げられるはず。そう思った雨の日。

 

くらもとよしみ