一九四五(昭和二十)年、浜江は疎開先の山形で終戦を迎える。秋に三鷹の家に戻ると大人数の貧乏暮らしが待っていた。
「何しろその頃は家の中に佃煮にするほど居候がいましたね。(中略)それで『壺』の画が売れたお金を、皆で一晩で使ってしまったの、みんな食えないんだもの。私だって食べたいもの、みんなだって食べたいと思ってね。銀座と新宿で『何でも好きなもの食えーって。』一番いい牛肉でも何でも食えって云って。つぎの日から何にも食うものないんです」(桜井浜江画集・下連雀夜話「羽根ぶとんと居候」より)
『壺』(前号掲載)を買ったのは後に浜江が「生涯の恩師」と慕う、美術評論家の田近憲三だった。田近が浜江を評したことばが遺る。
「その持って生まれた謙譲から、十の力を、一にも足りないように挙止されるところから、人は誤りをおかしますが、今そのおびただしい女流画家の中で、誰をもっとも畏れ、愕き、敬うかと言われるとき、即座にわたしが応えるのは、桜井浜江さんの存在です」(同・田近憲三「壮絶の作品」より)
 そしてもうひとり、浜江の力に引き込まれるように三鷹のアトリエを訪ねる男がいた。太宰治である。
「桜井邸への訪問は深夜に及ぶことが多く、だからもうかなりのお酒がはいっていて、そのうえ桜井さんからの饗応にあずかるということになる。(中略)そんなとき太宰さんは、白地のキャンバスが目に入ると、ふらふらとその前に歩いていってどっかと坐り、あぐらをかいたまま即興で油絵を描くことがあった」(傍点筆者)
 さて、太宰の短編『饗応夫人』のモデルは浜江ではないかと吹聴した人物がいる。(続く)

(『そよかぜ』2022年6月号/このまち わがまち)