そういうわけで昨日は104歳のおじいちゃんのお葬式でした。
出棺前に棺に親族で花を手向けます。
棺桶の中はたくさんのお花と、おじいちゃんの好きなものでいっぱいでした。
まぐろに鰻のお寿司。
脳トレでしていた浮世絵のぬり絵。
自分の戦争体験を取材してもらった東淀川区の冊子。
小1の(私からいくと)姪っ子のお手紙。
私が贈った「神との対話」の文庫本。
最期までおじいちゃんにすごくよくしてくれた従姉妹が作った白寿の手作りアルバム。
そしてチョコレート。
フと「今日バレンタインデーやな」
というとみんな「ホンマやな」
骨を焼いている間の食事時、おじいちゃんのグラスにはコーラ。
レイをかけられた笑顔の遺影。
ファンキーです。
普段からコーヒーにはスティックシュガーを何本入れはるんやろう と思わずにはいれなかったおじいちゃん。
はからずしてバレンタインデーにチョコレートと焼かれるなんて。
なにかとなにかと、でした。
おじいちゃんは、クマザサ茶とか、健康に関する本とか、幸せに生きられる心構えや易の本とかもよく読んだり人にすすめたりしていました。
好奇心旺盛、貪欲ともいえるほどの生命力には頭が下がりました。
焼きあがった骨の部位を、焼き場の方が一つひとつ説明してくれました。
骨折した時に入ったボルトと芯が残っていたり、しっかりした大腿骨、頭蓋骨や足の甲の細かい骨。
骨になったおじいちゃん。
健康に人一倍関心を持って(甘いの好きやけど)、幸せに生きる道を探求し続けたおじいちゃん。
健康に生きるよう保ってきたその身体は、 箸で押せば崩れる骨になりました。
なんだったんだろう。
持っていけるのは想いだけ。
思い出。
残していけるのは、痕跡と想い。
思い出。
帰り道の夕日を見て、
おじいちゃんが地球からいなくなっちゃった
と思いました。
いるんだけろうけど、身体はやっぱりもうどこにもない。
こんな地球を後に。
親族知人それぞれの「こんな」想いを、それぞれに残して。
自分が消えてなくなる時はどんな地球なんだろう。
人の心の中にはどんな想いが残っているんだろう。
自分は何を残せているんだろう。
私はおじいちゃんの数ある本や雑誌の中から、斎藤一人さんを知ることができました。
「死神」の話をされていました。
「死」は神である。
死神は、本当は人の心を大事な軸に戻すはたらき。
もし目の前の人がもうわずかの命と知れば、ひどいことを言ったりしたりできなくなる。
親や何かに対してそんな態度をとったり思ったりしてしまうのは、
「死というものを完全に受け入れていないから」
だといいます。
「死」を意識することの大切さをおっしゃってました。
日常いつものようにスーパーに入ります。
種類も量も豊かな食べ物。
「死というものを完全に受け入れて」
この売り場を見渡した時、
(自分が消えてなくなる時はどんな地球なんだろう。
人の心の中にはどんな想いが残っているんだろう)
ここにある商品は、
作られた土も、木も、海も、地域も、動物も、人も、
はたして喜んでいるんだろうか。
ここに来るまでに、どれだけの嬉しい想いがあっただろうか。
はっきりいってわからない。
おじいちゃんが残した想いも、決して喜びだけではなかった。
でもはっきりいってわからない。
原因と結果の連続の中にいて、最善を尽くし続けることしかできない。
できるだけステキになれるよう。
少しでも喜びが増えるよう。
親戚で集うたびに菜食になった私は、完全におかしい存在。
「まだやってんの」
と驚かれる。
用意してもらった料理をそのまま食べないKY者。
迷惑な印象は、ひとつ一つの信頼と親しみでしか和ませられない。
自分自身に対する落とし前をつけない限り不可能なんですね。
だから今回みんなが私に肉魚を抜いてお料理を回してくれたこと、交換してくれたこと、
ありがたくて嬉しくて仕方ない。
なぜ菜食なのか、
自然食なのか、
フェアトレードなのか。
みんなが聞く耳を持ってくれる日、
聞きたくなる人間になれる日、
それは私が自分に落とし前をつけられた日。
私が地球を離れる時、
残した想いができるだけ喜びの多いものになれるよう、
最善を尽くし続けたいと心から思います。
とんでもなくまとまりなくて長い独白を最後までご覧いただき本当にありがとうございました!感謝しています。
ただ生きていることに感謝しています。
ありがとうございます!