哲科のつぶやき。その10は、東洋から孔子の顔出し。 | そよぎめぐみブログ

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神仏大好き、お化けは苦手。何が見えても聞こえても、生きていくのだどこまでも。

正直、東洋哲学は詳しくないけれど、
孔子は高校でもやった、代名詞のような人。
しみじみ考えた辺りを、書いて行くけれど。
私的に歪んだ解釈は、ご容赦を。



仁と言うのは、人が二人と書くわけで、
誰かのために発動される「他者への愛」だ。

徳と言うのは、ケースバイケースに対応できるような、
バランスの良さを持ちましょうという意味だ。

私にとって孔子は、人間が社会生活の中で、
お互い心地よく過ごせるやり方を、考えた人。

だから私は若い頃、人の様子をよく見て、
その人が欲しているものや事柄を調達できるよう、
頑張ってみた。やり過ぎて、神経がやられた。

今思うと、仁には溢れていたけれど、
徳が足りていなかったんだな、と思う。



よく、徳というのは積むものだと聞くけれど、
それが積まれる心の中が極端に傾いていたら、
必死に積んでも、いずれ崩れて来てしまう。

バランスを取るからこそ積めるものであり、
バランス良く積む程、心のバランスが上がる、
そんな相互作用のあるものなのかもな、と思う。

「徳の高いお坊さん」と言うのは、
人のために拝みながら、自分のためにも拝んでいる。
経典や修行から学んだことを踏まえ、バランスよく、
フラットに物を見て、徳はどんどん積まれていく。



そして、世俗にまみれた私たちは、
バランスやフラットが危うくなりがちで、
ヘッタクレの嵐でグッタリ、なんて日常茶飯事。

それでも、経験値を上げて物事のさばき方に
なれてくれば、心のバランスが若い頃ほど、
大げさには崩れなくなっていることを感じる。

バランスよく過ごすことそのものが、
時には心乱れる人の役に立って、思わぬ徳を
積めていることも、あるのかもしれない。
何よりも、自分が気楽になることを感じるだろう。



私にとって孔子は、社会生活の中で、
自分がいかに楽に過ごせるかを、考えた人。

心を広く持ち、人の事も観察すると言うことは、
全体を見て、自分が行き詰らないように生きて、
尚かつ人のためにもなるんじゃないの?という、
処世術なのだと思う。

そこに至るまでに、いろんなことにビックリしない
自分を作っておくことは、とっても大事だ。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とは、
よく言ったもんだ。渦中では、それどころじゃないけど。