久しぶりに色々と思考をまとめられて、
個人的にはとても面白かった全11回。
夢中になって余裕を失うこともあったけれど、
これにて終了。ラストも、孔子で。
十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順がう。
七十にして心の欲する所に従って、
矩を踰えず。
私は来年、40歳。正確には、あと7ヶ月。
惑わず、と言われても、迷ってばかりで
判断できず、結局自分が苦しむようなことは、
まだまだあるというのに、どうなるのか。
そう考えていて、ふと、違う意味だと気づく。
30歳、自分として立つために何が必要だろう、
と考えて動き始めたことが、
40歳にして「そうか!」と納得できるように
なるということであって、人生全般について
迷いがなくなるという話では、ないんだと。
30歳の頃、環境がひどく変わって、
一度自分が崩壊した位のショックを味わった。
自分が安定する方法を探し、
生き生きとできる方法を探すように変化し、
更には我慢して生きるのではなく、人との間で
折衷しながら、楽しく生きる術はないかを探した。
探し始めたら、違う質の仕事が舞い込んできた。
違うタイプの友達ができ始めた。
古い友人と再会して、新しいものに出会えた。
おかげで40歳に近い今、「私であること」が
どんなことかを、おぼろげながらに感じて、
「そうか!」と納得できることも増えている。
このまま進んで惑わなくなったとしても、
今後も沢山迷うし、きっといろいろと困る。
年齢を重ねれば、加齢した通りに成長できる、
そんなわけでもないし、人生は山も谷も暗闇も
あって、明るく楽しくばかりでもない。
様々な場面に遭遇して来ての今、
一つ一つの「気づき」が、人生を豊かにする。
それだけは、間違いないと思っている。
だから、どんなに楽しくない修羅場も、
それが永遠に続くわけではないと信じて、
様々なやり方で頑張ってみる価値は、きっとある。
70歳で毒杯を煽ったソクラテスを始め、
西洋でも東洋でも、恐らく世界のどこでも、
哲学がやってきたことは、ただ一つ。
私たちが、私たち自身として楽しくいきるために
何が必要か、多様な面から必死に考えただけ。
私も、自分の心が何を必要としているか、
引き続き考えたいと思うし、興味あることについて
学んで行くことは、欠かせないとも思っている。
哲学者でも何でもないので、自分のためだけに(笑)。
そして、これを読んで下さっている方がいて、
少しでも楽しんでもらえていたら、無上の喜び。
気が向いて、自分の心とも向き合ってみるか、
と思ってもらえたら、尚のこと嬉しい限り。
学ぶこと、考えることの楽しさを、
改めて感じられたことにも、感謝を述べて。
本当に、ありがとうございました。