哲科のつぶやき。その9は「アイディア」の語源から。 | そよぎめぐみブログ

そよぎめぐみブログ

神仏大好き、お化けは苦手。何が見えても聞こえても、生きていくのだどこまでも。

最近では知られているかもしれないけれど、
「アイディア」=ideaの語源はギリシア時代まで遡る。
当時は「イデア」と呼ばれ「姿、形」の意味だった。

これを哲学用語に使ったのはプラトンと言う人。
彼はイデアを、純粋で完璧な「真の形」や「原型」と
して扱い、独自の世界観を作り上げた。



その昔、人間自体も純粋な原型であり、
イデア=完璧で純粋な原型、を見て、生きていた。
しかし穢れを帯びて地上に落とされ、
肉体という牢獄につながれて生きるようになった。

地上世界は、イデアの模造物でできている。
忘却を余儀なくされた人間も、その模造物を見て、
時折チラチラと、イデアそのものを少し思い出す。

人間が「学習する」と言う時、それは、
昔見ていたイデアを思い出すことだ。
だから、学習=想起(思い出すこと)なのだ、と。

本気でやろうと思えば、私自身、
イデア=原型を想起できるのかもしれないし、
アイディアのかけらは最初から自分の内部にある、
そんなワクワク感が、大学生の私には楽しかった。




時が経って今、それを日常レベルに引っぱり下ろし、
アイディアを得たりピンと来たりするために
何が必要かを考えると、私に必要なのは、二つ。

自分の中に答えの片鱗があると、自覚すること。

きっかけになる刺激や知識に、積極的に触れること。

答えの片鱗は、アイディアのかけらとは限らない。
錠前付きのドアみたいに、鍵を待っていることもある。

鍵も、アイディアの片割れも、私たちの外部にある。
探し出すには、積極的に知識に当たったり、
あちこち出かけて刺激を受けたりする以外、手はない。

内部のかけらと外部からの片割れがつながった時、
あるいは、見つけた鍵が錠前をうまく開いた時、
電流が走ったように感じたり、鳥肌が立ったりする。

これしかないと言う思いが起きて、
否応なく、先へと進んでいける瞬間が来る。



私の今持っている片鱗は、これとこれです、
と説明することは、到底できない。
それは、外部の何かと反応した時に
「あぁ!これだったのか!」とわかることが多い。

かけらを探し、ドアを見つけ、鍵を求めに冒険へ。
まるでロールプレイングゲームのようだ。
ならば、自分の人生におけるロール(役割)も、
冒険の最中に見つかるかもしれない。
ステージごとに、ジョブチェンジだってアリだ。

そんな風に思うと、個人的には、
毎日がかなり楽しくなってくるのだけれど、
「お気楽過ぎ」と突っ込まれるかな。