哲科のつぶやき。その7は、我思うゆえに我ありってやつ。 | そよぎめぐみブログ

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神仏大好き、お化けは苦手。何が見えても聞こえても、生きていくのだどこまでも。

デカルトという人が言った、
それなりに有名な言葉だろうと思う。

我思う、故に我あり。
なんのこっちゃ。と思う人も多いだろう。

人間だから、思うし考えるけど、なんで
「我あり」なんて結論になっちゃうわけ?



デカルトという人は、とりあえず、
なんでもかんでも疑ってみようと思った人。
「存在しているもの」を証明するために、
本当に、そこにあるのか?と全てを疑ったのだ。

自分で見るもの、聞くもの、感じるもの、
そこに確実にあるだろうか?と問う。
全ては自分の勘違いかもしれず、
確実性まではない、と思えるものは却下した。

彼のやり方は「方法的懐疑」、つまり常識的に
どうこうという視点を打ち捨て、真実を見つける
ために「疑う」という「方法」を使ったところが
斬新だった。

全てを捨てて捨てて、判断する対象が無くなった時、
彼は気づく。全てのものを疑ってかかっている、
判断する側の自分の精神だけは、今ここにある、と。

だから「我思う、故に我あり」という言葉は、
平たく言うと「思っている自分は、確実にいるよ!」
というシンプルな意味になるのだ。そんなに軽く
言ったら、歴史には残らなかっただろうけれど。



この極端な言葉を、日常レベルに落としてみると、
「自分で考えなかったら、自分がいないのと同じ」
と言い換えられると思った。

人の顔色ばかりみている。
自分の欲求ばかりを先行させている。
そんなことを続けていたら、本来あるべき、
自分自身の芯が、ぶれてなくなってしまう。

いつでもどこでも、とにかくしっかりした自分を
保って、なんていう厳しい話ではなく。

人のせいにすることなく、判断の基準は
常に自分の中にないとね、という話。


本来ならどんな決断も、最終的には自分がしている
はずなのに、人のせいにする人は結構多い。
結果が悪い時ほど、あの時あの人がああ言ったから、
と思いたくなるけど、どんな情報を誰がくれても、
最後に「うん」と意志を決めたのは、自分。

「自分の判断」と言う自覚をちゃんと持てるのは、
自分で考えた結果としてイエス/ノーを決めた時。
ならば、その自覚は積極的に持って行こう。

そのために、この世で一番確実に存在するという
「考える自分」を、もっと大事にして活用していこう。
そして、自分の人生を、自分で生きよう。

デカルトはそんなこと言わないけど、
そんな風に解釈するのも、ありだよねと思う。