哲科のつぶやき。その3。 | そよぎめぐみブログ

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神仏大好き、お化けは苦手。何が見えても聞こえても、生きていくのだどこまでも。

引き続き、哲学科関係の話で。
元の哲学者の話とかけ離れている、
その点についてご容赦頂きたいのも同様で。


現象学の話を聞くことになった。
彼らは、これまでのカントやヘーゲルみたいな、
「人間が物事を捉える時」という前提ではなく。

そこに、モノがある。
それはもう、否定できないことで。

だから、それに対して「どうしてあるのか」とか
私たちがどうやって分類してるかとか、考えるのはナシ。
そんな風な前提を新たに置いた。

「現象」は、目の前に見える通り、という意味。
認識の仕方なんて観点を飛び越して、
「見える」ということに絞って考えてみよう、という
新しい観点で、話が進む。



そういう「物の見え方」を中心として話が回る中で、
私がハッと驚いたことがあった。

既に出典も忘れたけれど、
「全ての場所から一度に見られる家はない」
と言った意味の、訳文が載っていた。

パッと見、わかりにくいのだけれど、
人間の世界において、ものすごい真実だと思った。

私たちは、一軒の家ですら、卵一つですら、
全ての面から一度に、そのものを見ることができない。

それは、当たり前のようでいて、
一面的に物を見ていることは、すぐ忘れるよね、
という確認になった。



後になって、更に思う。
つまり、自分ですらそうなのだから、
同じ位置から同じように物を見ていたはずの、
隣人や友人や家族や伴侶はどうなのよ、という話だ。

ずっと一緒にいたんだから、わかるでしょ。
これだけ話したんだから、話見えるでしょ。
仲いいんだから、わかるよね。
隣にいたんだから、同じように見えたでしょ。

いや、多分、それって結構難しいこと。

強烈に具体的な一瞬は、別かもしれない。
「あの人が万引きするの見ました」「私も」
「だって一緒に買い物してたんですもの」
みたいな流れであれば、証言として成り立つ位に
一致しているのだろうけど。



日常的に、わかってるよね、こんなこと、
と思って話していることが、意外に通じてない、
そんなの、日常茶飯事だ。

特に、経験したことを話している場合、
卵や家を見ている時のように「こっちに来て見てみて」
なんて立ち位置交換もできない。

となれば大切なのは、「相手からはどう見えたか」だ。
「私の見たものと違う」と切り捨てるのではなく、
「そういう見え方もあるのか」と一旦受け取る。

難しいようだけれど、肯定も否定もしない状態で
「ふーん」と思えることを俗に「懐が広い」と言い、
否定する必要がないから肯定しとこう、と思える、
それを「器が大きい」と言う、のだと思う。



この流れから行くと、わかって欲しいことを
言葉で伝えようとする人は、大事な人だ。

一緒にいたから、仲がいいから、という押しつけでなく、
私たちの唯一の意志疎通の方法である「言葉」を駆使して、
思いや見え方を伝えようと、努力してくれる人だからだ。

同時に、言葉で伝えるのが苦手だから行動で、
というタイプも大事だ。その人の行動の全てが
思いの全てである位に裏表がなければ、
現象学の思惑通り、「見えたままに受け取る」という
やり方が、正に成立するからだ。


お固くなってしまったけれど、
つまり、物の見え方は人ぞれぞれだから、
ある日突然裏切られたように感じても、
そんなことで憤るだけアホくさい、ということだ。

そして、そんな風に思えず、悔しがったり悲しんだり、
する自分は、真面目なのだな、と思えばいい。
多少不真面目になってくれば、幅と余裕ができて、
あちゃー、仕方ないなぁで済む日が来るのだろうと。

そして、達観していたはずの事柄でも、
いずれ別の場面で、やられた!なんか違う!
と思う日が、必ずまた来る。その度に私たちは、
あー、裏側までは見えないから仕方ないよね、と思う。



生きるって言うこと自体が、そういう訓練なのだと
思っていれば、何を見て聞いても「これが卵の裏側か」
と、ちょっとは楽しめるものだと思うのだけれど、
どうだろうか。