哲科のつぶやき。その2。 | そよぎめぐみブログ

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神仏大好き、お化けは苦手。何が見えても聞こえても、生きていくのだどこまでも。

今でも意外に役立っている当時のことを、
引き続き書いてみたいな。などと。

前回同様、引き合いに出す哲学者の言葉から
自分で読みとれた内容を書いていくので、
本当の意図が酌み取れていない辺りの責めは、
平にご容赦いただければと思う。


ドイツ哲学者で、ヘーゲルという人がいた。
カントが人のものの感じ方から判断までを
感性・悟性・理性で説いたなら、ヘーゲルは、
テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ、
という概念で、物事の流れを説明する。

これがまた、当たり前のことなのだが深い。


テーゼと言えば「残酷な天使のテーゼ」でおなじみ、
「命題」であり「主題」であり「テーマ」だ。

アンチテーゼは、主題と正反対の内容の事を指す。

ジンテーゼは、双方の良いところを吸い上げて作りだす、
レベルの一つ高い、新たな命題のことだ。

ジンテーゼが出来あがる過程をアウフヘーベンと言う。
一段上がる、的な感覚だと思ってもらうといい。


具体的に行こう。


小さい頃は、良い子だった(テーゼ)
中学生になって、いきなりグレた(アンチテーゼ)
高校も終わりの頃、母さん、ごめんな、と一言言って、
素行が元に戻り、一人前の男の顔になった(ジンテーゼ)

仕事でもそうだ。

完璧を目指して詳細なやり方を模索する(テーゼ)
面倒臭くなって、抜ける所まで手を抜く(アンチテーゼ)
そのうち、ある程度詳細かつ楽のできる、
効率性の高い方法に思い至る(ジンテーゼ)

端から見た感じを書けば、上記のようになる。
アウフヘーベンは過程なので、自分しかわからない。
私たちは、そういう意識を持っていないだけで、
結構ヘーゲルの説明っぽく、生きていやしないか。



アウフヘーベンの過程は、成長にも似ている。
グッと一段階は上がるけど、一度にそれ以上は上がらない。
ある程度、悩みや努力や意欲が必要で、時折結構キツイ。

けれど、何度も何度も繰り返し、
次のジンテーゼへと上っているうちに、
気が付いたら、結構な高みにいるのに気付く。
開けた視野に、思えば遠くへ来たもんだ、と思う。



それが故に、過去に傷を持つ人にはツライ思考法だ。
切り捨てたい過去にも、学ぶべき所があるかどうかを
見直さないといけなくなる。できるかそんなこと!
その気持ち、重々納得。

でも、私たちが生きて来た時間は、
恥ずかしくても、気に食わなくても、不愉快でも、
全部自分にとっては必要な時間として与えられた。
ツライ時間こそ、正にアンチテーゼだったんだ。

そんな風に、客観的に見ることができた時、
トラウマやPTSDは、様相を変え始める。
私自身が、そうだから。

今、沢山のジンテーゼの上に立っているなら、
過去の細かなことは、もういいじゃないか。
引き換えにしてきたものを惜しむのは、
少々贅沢なのかもしれない。

まだ、傷を背負い、テーゼとアンチテーゼの間を
うろうろしていて、一つもいいことなんてないわよ、
という方は、ここらで一度勇気を出して、
ジンテーゼ探しをしてみるのも、いいかもしれない。


そんな風に思える辺りが、ヘーゲル式弁証法の、
人生における最大の強みだと私は思っている。
私たちの人生は、全部どれかのテーゼの中にあり、
私たち自身、ジンテーゼを求めて生きる権利を、
いつでも、いつまでも、携えているのだ。