哲科のつぶやき。 | そよぎめぐみブログ

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神仏大好き、お化けは苦手。何が見えても聞こえても、生きていくのだどこまでも。

哲科は、哲学科のこと。
大学2年から4年まで、私が学んでいた学問。
1年に何をしていたかはさておき、
今でも意外に役立っている当時のことを、
ふと、思い出したので書いてみたいな。

もっとも、引き合いに出す哲学者の
本当の意図など、私にはわかっていない。
自分で読みとれた内容を書いていくので、
そんなことはどこにも書かれていない、という
責めは、平にご容赦いただければと思う。



高校の頃、知人の勧めで
「純粋理性批判」を読んでみた。
カントというドイツの哲学者の書いた本で、
肝心の「理性」については難しすぎたけれど、
前半に展開される「感性」と「悟性」の話は
いたく気に入った。

私たちは、
感性で受け取ったものを、
悟性で分類する。

最終的には理性で判断するというオチも
あるようだけれど、私にとって大事だったのは
「分類する」役割の悟性の存在だった。



当時、思ったり感じたりする→判断する、という
シンプルな経路で考え事をしていた私には、
その間に「分類」行為を挟むと言うのは斬新で。

判断の前に、客観的に受け取った情報を
吟味し分類する、そんな能力が、ア・プリオリに、
つまり先天的に存在すると書いてある。

受け取った情報や知識を分類する、
それは当たり前なのでは、と思われるだろう。

しかし、自分自身の感情や執着、思念についても、
判断や行動の前に分類する、ということは
いつでも冷静さを保てる資質を目覚めさせられる、
という意味につながる。しかも、その資質が
誰にでもあると言うのは、目からウロコどころか
魚ごと飛び出して来そうな驚きだった。



大学の3年間では、ひたすら悟性をフル活用する
時間が来た。哲学は非常に柔軟性があって、
後ろに「哲学」さえついていれば、題材は何でもいい。

社会哲学、言語哲学、物理哲学など、
普通の学問の枠などひょいひょい超えるクセに、
考えて文章や言葉にする段になると、
必ず悟性が必要になる。

情報を分類してまとめていくことでしか、
次に何も出てこないのだから。



実は、今でもこれが、助かるスキルになっている。

日常生活や仕事の面で、
物事に対して必要な条件を読み取り、
一つの形になるように構築するにはどうしたらいいか、
筋道を探す考え方を、最初からできるからだ。
可能不可能は別にして、やり方を探る中で
思わぬ別の方策を、人にみつけてもらえることもある。

そして感情的な面を切り分けて考えることができる。
ムッとしたけど、何にムッとしたのか。
ムッとした感情ごと何かを伝えるのではなく、
ムッとした内容だけをさらっと伝えればいい、と思える。
感情の発散は、また別口でやろうと思える。
これは大きい。


最近のニュースを見ていると、
みんながそこをわかれば、本人が一番、
楽になれるのに、と思う。

寂しいから殺した。都合が悪いから殺した。
邪魔だから殺した。好きだから殺した。

もったいない。折角生まれて来たのだから、
気の合う人なら延々一緒にいて、
そうでない人とは、それなりに距離を取って、
みんなが楽しく生きられるように、
自分を先導してやったらいいのに、と思う。

そのためには、例えば「怒り」を覚えるとするなら、
自分が何について怒っているのかを知り、
解決策を考えるのが最優先。

「怒りの矛先」なんてものをどこに向けるか
考えてる暇なんて、本当はないはず。
そもそも、怒りを「矛」という武器に変えたのは
自分自身だと、まずは気づくと楽なのだ。



「現状では、解決策なんてないから」
そう言う人も、いると思う。それはいわゆる試練で、
耐えられる所まで耐えて、できれば超えるしかない。

「試練は超えられる時に、超えられる大きさでしか来ない」
と言うのは私の好きな言葉で、この時にもまた、
感情を切り離して、分類をした方が良いと思うし、
我慢できない程、感情に苦しめられるのであれば、
もうそこは、自分の居場所ではないのだと判断すればいい。



「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とも言うけど、
それは多分、そうすることで自然と悟性が磨かれて行くから。
結果、取捨選択が上手になって、全てを自分だけで
抱え込まずに済むようになっていく。

自分の心に対して、些細な嘘すらつけなくなっていく、
これからの時代には決定的に必要なことだと思うんだなぁ。