紹介

 

1872年、ドイツ語版

 

共産主義者の同盟は労働者の国際連合体であり、当時の条件下では勿論、秘密的なものでしかあり得なかったが、1847年11月ロンドンで開催された大会で、我々は以下に署名する者に、党の詳細な理論的及び実践的綱領(コウリョウ)を出版するために執筆するよう依頼した。その原稿はロンドンに送られ、二月革命(1848年)の数週間前印刷された。最初はドイツ語で出版され、ドイツ、イギリス、そしてアメリカで少なくとも12種類の版が再出版された。英語版は1850年ロンドンの『レッド・リパブリカン』誌でヘレン・マクファーレン女史の翻訳で初めて出版され、1871年にはアメリカで少なくとも三種類の翻訳版が出版された。フランス語版は、1848年の6月暴動の直前にパリで初めて発表され、最近ではニューヨークの『ル・ソーシャリスト(Le Socialiste)』に掲載された。新訳は現在準備中である。ポーランド語版は、ドイツで出版された直後にロンドンで出版された。ロシア語訳は60年代、ジュネーブで出版された。デンマーク語版も出版直後に翻訳された。

 

この25年の間に物事の状況がどれほど変化しようとも、この共産党宣言で打ち出された一般原則は、全体として今日でも以前と変わらず正しい。あちらこちらで細部が改善されるかもしれない。この原則の実際的な適用は、ここで述べているように、いつでもどこでも、現存する歴史的条件に左右される。この一節は多くのところで、今日では全く異なる表現になっているであろう。1848年以来の近代工業の巨大な躍進、それに伴う労働階級の改善され拡大された組織、まず二月革命で、さらにフランスで労働階級が初めて丸2ヵ月間政治権力を握った世界初の社会主義政府、「パリ・コミューン」で得られた実践的経験から見て、この綱領は細部においては時代遅れになっている。それは「労働者階級は、既製の国家機構を単に手に入れ、それを自らの目的のために振り回すことはできない」ということである。さらに社会主義的文学の批評が、1847年までしか遡及していないので、現代との関係で不十分であることは自明である。また共産主義者と諸野党との関係に関する指摘は、原理的には依然として正しいが、実際には時代遅れである。しかし、この共産党宣言は歴史的の文書となり、もはや我々にはこれを変更する権利はない。1847年から今日に至るまでのギャップを埋める序文と共に、恐らく、次の版が出るかもしれない。

 

 

1882年、ロシア語版

 

バクーニンが翻訳した共産党宣言の最初のロシア語版は、60年代の初めに「コロコル新聞」から出版された。そのとき西側諸国は、ロシア語版の共産党宣言を文学的好奇心でしか見られなかった。そのような見方は今日では不可能であろう。当時(1847年12月)、労働階級の運動が占めていた分野がいかに限定的であったかは最後の箇所、すなわち各国の様々な野党との関係における共産主義者の立場によって、最も明確に示されている。ここにはロシアとアメリカが欠けている。ロシアがヨーロッパの反動の最後の大きな予備軍を構成していた時代であり、アメリカが移民を通じてヨーロッパの余剰の労働者の勢力を吸収していた時代。両国はヨーロッパに原材料を供給し、同時にヨーロッパの工業製品を販売する市場でもあった。そういうわけで両国は、ある意味で既存のヨーロッパ体制の柱であった。しかし、今日ではまったく異なっている。ヨーロッパからの移民が北米に巨大な農業生産をもたらし、その競争は大小を問わずヨーロッパの土地所有権の根幹を揺るがしている。同時にアメリカは、その莫大な産業資源を西ヨーロッパ、特にイギリスがこれまで独占してきた産業独占をまもなく打ち破るべきほどのエネルギーと規模で活用することができるようになった。この二つのことはアメリカ自身にも革命的な影響を及ぼす。

 

同時に工業が集中しているところでは、大量の工業系の労働者と資金の驚異的な集中力が初めて発展している。そして今度はロシアなのである!1848年から9年にかけての革命の間、ヨーロッパの諸侯だけでなくヨーロッパの資本家階級もロシアの介入によって、目覚め始めたばかりの労働階級からの唯一の救いを見出した。ロシアの皇帝、すなわち「ツァーリ」はヨーロッパの反動勢力の首領であると宣言された。今日ツァーリはロシアの町「ガッチナ」の革命の捕虜(ホリョ)なのであり、ロシアはヨーロッパの革命的行為の前衛を形成している。今度の共産党宣言は、その目的として近代の資本家階級の財産の不可避的な消滅を宣言していた。しかしロシアでは急速に花開いた資本家からの詐欺と、蓄積(チクセキ)し始めたばかりの資本家階級の財産の件に直面している。それでは、問題は農作物の管理を担当したロシアの農村共同体「オプシチナ(Obshchna)」は大きく損なわれたとはいえ、土地の原初的な共有制の形であり、共産主義的な共有制のより高い形に直接移行することはできるか、ということである。それとも逆に、まずヨーロッパの歴史的進化を構成するような同じ溶解の過程を過程を経なければならないのか?今日できる唯一の答えはこれである。未来のロシア革命が西側における「労働階級革命」の合図となり、両者が互いに補完し合うようになれば現在のロシアの土地の共有制は、共産主義的発展の出発点として役に立つかもしれない。

 

 

1883年、ドイツ語版

 

この版の序文には、残念ながら我一人の名前で署名しなければならない。マルクス、彼こそがヨーロッパとアメリカの労働階級が他の誰よりも多く恩義を感じるべき人物であり、今は既にハイゲート墓地に眠り、彼の墓にはもう初草が生えている。彼が亡くなってから(1883年3月14日)、共産党宣言を見直したり補足したりすることはますます考えられなくなった。だからこそ、次の点を再び明確に述べる必要があると考える。宣言を通じて流れる基本的な思想は、経済的生産と、そこから必然的に生じる社会の構造が、その歴史的時代の政治的および知的歴史の基礎をなすというものである。昔々、人類が原初の共同土地所有を始めた以来、すべての歴史は階級闘争の歴史であり、社会進化の様々な段階であり、搾取される側と搾取する側、支配される側と支配する側との間の闘争の歴史であった。

 

しかし、この闘争は今や搾取され抑圧される階級、すなわち労働階級が、それを搾取し抑圧する階級、すなわち資本家階級から自らを解放することは不可能であり、同時に社会全体を搾取、抑圧、そして階級闘争から永遠に解放する段階に達している。この基本的な思想は、マルクスだけに独占的に属するものである。これについては、既に何度も述べているが、特に今、宣言自体の前文にもそれを記す必要があると考える。

 

 

1888年、英語版

 

『共産党宣言』は、当初ドイツ人のみで構成されていたが後に国際的な組織となった労働者団体、「共産主義者同盟」のプラットフォームで出版された。1848年の大陸の政治情勢の下、この団体は避けられないことである秘密結社の形であった。1847年11月開催された同盟の会議で、マルクスとエンゲルスは完全な理論的、実践的の党の綱領の準備を任された。この原稿は1848年1月にドイツ語で書かれ、フランス革命の数週間前にロンドンの印刷業者に送られた。フランス語訳は1848年6月の蜂起直前にパリで出版された。最初の英語訳は1850年ロンドンの「レッド・リパブリカン」紙上で「ヘレン・マクファーレン」によって発表された。デンマーク語版とポーランド語版も出版されている。1848年6月のパリ蜂起の失敗は、当時のヨーロッパの労働者階級の社会的、政治的熱望をしばらくの間、再び影の中に追いやった。

 

そこから、再び革命前の状態と同じように、支配を巡る争いは資本家階級内の異なる派閥間でのみ行われ、労働階級は政治的立場を求める戦いに留まり、中流階級の急進派の極端主義者の位置に置かれた。独立した労働階級の運動が生命の兆しを見せ続ける場所で、その極端主義者は容赦なく追及された。そのようにして、プロイセン警察はケルンにあった共産主義者同盟の中央委員会を追い詰めた。連盟の党員は逮捕されて18か月の投獄の後、1852年10月に裁判が行われた。この有名な「ケルン共産党裁判」は10月4日から11月12日まで続き、囚人のうちの7人が3年から6年の懲役刑を宣告された。判決直後に残りの党員によって同盟は正式に解散された。『共産党宣言』はそれ以後、忘れ去られる運命にあったように思われた。しかし、ヨーロッパの労働者が支配階級に再度挑戦するための十分な力を取り戻すと、「国際労働者協会」が立ち上がった。この協会は、ヨーロッパとアメリカの全闘争的の労働者を一つの体に融合させることを明確な目的として結成されたが、すぐには『共産党宣言』に記載された原則を宣言することはできなかった。

 

国際労働者協会は英国の労働組合、フランス、ベルギー、イタリア、スペイン、そしてドイツの社会主義の追随者に受け入れられるだけの十分に広範な綱領を持たなければならなかった。マルクスはこの綱領を全ての党派が満足するように策定し、労働階級の知的発展を全面的に信頼していた。共同の行動と相互の議論から必ず生じるであろうこの発展は、資本家への闘争の様々な出来事や変遷、特に敗北が人々の心に、彼らの好みの様々な特効薬の不十分さを思い知らせ、労働階級の解放のための真の条件へのより完全な洞察の準備を整えるのに役立った。そしてマルクスは正しかった。1874年、インターナショナルが解体され、労働者は1864年、発見したものとは非常に異なる人々になってしまった。

 

フランスの「プルードン主義」、ドイツの「ラサール主義」は消滅しつつあり、また保守的な英国の労働組合も多くはインターナショナルとの接触を以前に切っていたが、徐々に進歓迎しているところに至り、去年ウェールズのスウォンジー市で、その会長がインターナショナルの名で言えるようになった。「大陸の社会主義は、我々にとってもう恐ろしいものではなくなった」。実際、この「宣言」の原則は諸国の労働者に拡散されて行った。そして、共産党宣言は再び注目されたのであった。1850年以来、このドイツ語の宣言は何度もスイス、イングランド、そしてアメリカで再版されていたのである。1872年はニューヨークで英訳され、その翻訳がウッドハルとクラフリンの週刊誌に掲載された。その英語版からフランス語版がニューヨークのル・ソシアリスト誌に作られた。それ以来、少なくとも二つ以上の英訳、多かれ少なかれ切り刻まれたものがアメリカで出版され、そのうちの一つがイングランドで再版された。初のロシア語訳はバクーニンによって作られ、1863年頃ジュネーブの「ヘルツェンのコロコル事務所」で出版された。そしてヴェラ・ザスーリチによる二番目のロシア語訳もジュネーブで1882年に出版された。

 

新たなデンマーク語版は1885年、コペンハーゲンの「社会民主主義図書館(Socialdemokratisk Bibliothek)」で読める。新たなフランス語訳は1886年、パリのル・ソシアリストにある。このフランス語版からスペイン語版はマドリードで作成され、1886年に出版された。ドイツ語の再版は数えられないほどある。少なくとも12版である。数か月前コンスタンティノープルで出版される予定であったアルメニア語訳は、出版者がマルクスの名前の付いた本を出すことを恐れたので、光を見なかったと聞かされた。また、翻訳者がそれを自分の制作物とは呼びたくなかったためであるという。他の言語への翻訳については聞いたことがあるが見たことはない。だからこそ、その宣言の歴史は現代の労働運動の歴史を反映しているのである。今、それは疑いなく最も広まっており、最も国際的な社会主義文学の生産であり、シベリアからカリフォルニアまでの数百万の労働者によって認められている共通のプラットフォームなのである。

 

しかし、この書かれた当時、それを社会主義の宣言と言われなかった。1847年当時、「社会主義者」とは一方では様々なユートピアの賛成者を指していた皆は既に単なる宗派の地位に追いやられ、徐々に衰退していた。そして、もう一方では、あらゆる種類の社会的不満を修正すると主張し、資本や利益に何ら危険をもたらさないように、あらゆる方法を使って手を加えることで社会的不満を解決しようとする多種多様な社会的詐欺師共が社会主義者であると言われる。この場合、彼らは労働階級運動の外にいる人々であり、むしろ「教育を受けた」階級からの支援を求めていたのである。政治的革命だけでは不十分であると確信した労働階級の一部は、全体的な社会変革の必要性を宣言し、自らを共産主義者と称した。これは粗野であり荒々しく、純粋に本能的な共産主義であったが、それでも要点に触れ、労働階級の間では強かった。フランスの「カベー(Cabet)」やドイツの「ヴァイトリング(Weitling)」のユートピア的共産主義を生み出すほどの力を持っていたのである。そういうわけで1847年当時、社会主義は中産階級の運動であり、共産主義は労働階級の運動であった。社会主義は少なくとも大陸では「立派」なものであり、共産主義は全くその逆であった。そして。我々の考えは最初から「労働者の解放は労働者自身の行為でなければならない」というものであったので、どちらの名前を取るべきかについては疑う余地がなかった。

 

しかも、それ以来、我々はこの考えを否定することはなかった。この『共産党宣言』は我々二人が共同で作ったもので、その核となる基本的な命題は全くマルクスのものである。それは、すべての歴史的な時代において支配的な生産と交換の方式、それに必然的に続く社会組織は当代の政治的、知的な歴史を説明するための基を形成し、構築されるものであるという命題である。そういうわけで、原始的部族社会の土地の共有制の解体した以来は、「搾取する者」と「搾取される者」、「支配する階級」と「支配される階級」との闘い、「階級闘争の歴史」であり、これらの階級闘争の歴史は現代においては、搾取され抑圧される階級、すなわち「労働階級」が取り組みなしには、搾取し支配する階級の「資本家階級」から解放されることは達成できないほどに至っている。同時に全搾取、全抑圧、階級の区別、階級闘争から社会全体を解放することもできない。この命題は、我の考えではダーウィンの進化論が生物学に対して果たした役割を、歴史に対して果たす運命にあると思われる。我々は1845年以前の数年間、徐々にこの命題に近付いてきた。しかし、我が再びマルクスに会ったのは1845年の春のブリュッセルであり、彼はそれを既に練り上げており、ここで我が述べたものとほぼ同じくらい明確な言葉で我に提示した。

 

我は「1872年のドイツ語版」の序文から、これを引用する。

 

「この25年の間に物事の状況がどれほど変化しようとも、この共産党宣言で打ち出された一般原則は、全体として今日でも以前と変わらず正しい。あちらこちらで細部が改善されるかもしれない。この原則の実際的な適用は、ここで述べているように、いつでもどこでも、現存する歴史的条件に左右される。この一節は多くのところで、今日では全く異なる表現になっているであろう。1848年以来の近代工業の巨大な躍進、それに伴う労働階級の改善され拡大された組織、まず二月革命で、さらにフランスで労働階級が初めて丸2ヵ月間政治権力を握った世界初の社会主義政府、「パリ・コミューン」で得られた実践的経験から見て、この綱領は細部においては時代遅れになっている。それは「労働者階級は、既製の国家機構を単に手に入れ、それを自らの目的のために振り回すことはできない」ということである。さらに社会主義的文学の批評が、1847年までしか遡及していないので、現代との関係で不十分であることは自明である。また共産主義者と諸野党との関係に関する指摘は、原理的には依然として正しいが、実際には時代遅れである。しかし、この共産党宣言は歴史的の文書となり、もはや我々にはこれを変更する権利はない。1847年から今日に至るまでのギャップを埋める序文と共に、恐らく、次の版が出るかもしれない」

 

 

1890年、ドイツ語版

 

最初に、1883年のドイツ語版が書かれて以来、『共産党宣言』の新たなドイツ語版が再び必要とされ、また、『共産党宣言』にはここで記録すべきことが多くある。1882年にジュネーブで「ヴェラ・ザスーリッチ」という人によって行われた第二のロシア語訳版が現れ、その版の序文はマルクスと我が書いた。残念ながら元のドイツ語の原稿は行方不明であり、それでロシア語から再翻訳しなければならないが、これはきっと、この『共産党宣言』を向上させるものではない。ほぼ同じ日に、ジュネーブで新たなポーランド語版が現れた。その名は『マニフェスト・コムニスティツニー(Manifest Kommunistyczny)』である。さらに、1885年はコペンハーゲンの社会民主主義図書館で新たなデンマーク語の翻訳が現れた。残念ながら、完全ではなかった。それでも、翻訳者にとって難しいと思われる一部の必須の箇所が省略されており、それに、いくつかの箇所に不注意の兆候があって、翻訳者がもう少し労力を惜しんだなら、優れた仕事ができたであろうことが示唆されている。

 

フランス語版は1886年、『ル・ソシアリスト』で現れ、これまでに出版された中で最もよいものとなった。これに基づいて同じ年にスペイン語版がマドリードの『エル・ソシアリスタ』で出版され、これは次いでパンフレットの形式で再発行された。スペイン語版には「カルロス・マルクスとF.エンゲルスによる『共産党宣言』、マドリード、『エル・ソシアリスタ』での管理、ヘルナン・コルテス」という語句が書いてある。興味深いことに、1887年にアルメニア語の翻訳の原稿がコンスタンティノープルの出版社に提供された。しかし、その善良な人はマルクスの名前を冠したものを出版する勇気がなく、翻訳者が自分の名前を著者として記すよう提案したが、マルクスはそれを断った。多少正確でないアメリカでの翻訳版がイギリスで繰り返し再版されてから、1888年にようやく正確な版本が現れた。これは我の友人、「サミュエル・ムーア」によるもので、それが印刷される前に再び一緒に見直した。それは次のように題されている。「カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによる共産党宣言」である。そして、フリードリヒ・エンゲルスによる編集と注釈付きの公式英語訳、1888年、ロンドン、ウィリアム・リーブス、185フリート・ストリート、E.C.」という語句を追加した。我々は、その版のいくつかの注釈をこの現在の版に加えた。

 

『共産党宣言』には独自の歴史がある。登場時には科学的社会主義のあまり多くない数の前衛隊(最初に挙げられた翻訳が示すように)によって熱烈な歓迎を受けていたが、1848年6月のパリでの労働者の敗北で始まった反動によって、すぐに背景に追いやられ、最終的に1852年11月のケルンの共産主義者への有罪判決で「法律によって」破門されてしまった。「二月革命」として始まった労働者の運動が公の場から姿を消すと、『共産党宣言』もまた背景に消えたのであった。ヨーロッパの労働者が再び支配階級の力への新たな攻撃のために十分な力を集めると、国際労働者協会が誕生した。その目的は、ヨーロッパとアメリカの全ての闘志のある労働階級を一つの巨大な「軍隊」として結束させることであった。そういうわけで、それは『共産党宣言』で示された原則から出発することはできなかったのである。

 

英国の労働組合、フランス、ベルギー、イタリア、スペイン、そしてドイツの社会主義の歴史が消えてしまっていない綱領を持たなければならなかった。この綱領、すなわち国際組織の規約の背後にある考慮事項は、マルクスによって素晴らしい手腕で作成され、バクーニンやアナーキストすらも認めるものであった。『共産党宣言』に示された思想の究極的な最後の最後に来る勝利について、マルクスは労働階級の知的発展にのみ依存しており、これは団結した行動と議論から必然的に生じるものであるべきであった。資本主義との闘いの出来事と様々な運命、成功以上に失敗は、彼ら闘士に以前の万能薬の不十分さを示すことは避けられなかったし、労働階級の解放の真の条件を徹底的に理解するための彼らの心を、より受け入れやすくした。そしてマルクスは正しかった。国際労働者協会の解散時の1874年の労働階級は、その設立時の1864年のそれとは全く異なっていたのである。ラテン系の国とドイツの社会主義は消えていき、さらには保守的な英国の十の労働組合も、1887年にはそのスウォンジーの会議の議長が彼らの名前で「大陸の社会主義は、我々にとってもう恐ろしいものではなくなった」と話せるまで、次第にそんれに近付いて行った。しかし1887年までに、大陸の社会主義はほとんどが『共産党宣言』で唱えられている理論であった。

 

そういうわけで、ある程度まで『共産党宣言』の歴史は、1848年以降の現代の労働運動の歴史を反映している。今、それは間違いなく、すべての社会主義文学の中で最も広く普及している、最も国際的な製品であり、シベリアからカリフォルニアまでの数百万の労働者の共通の綱領なのである。それでも、この宣言が現れた時、それを社会主義の宣言と言うことはできなかったのである。1847年には社会主義者と見なされる二種類の人々が存在していた。一方では、様々なユートピアの賛成者がいた。特にイングランドとフランスの社会主義者が挙げられる。この時点で、いずれも徐々に衰退して単なる宗派になっていた。他方では、社会的な悪弊(アクヘイ)を各種の普遍的な万能薬やあらゆる方法を使って手を加えることで解決しようとする社会的な詐欺師がいた。彼らは資本と利益を全く傷つけることなく社会の問題を解決しようとした。

 

どちらの場合も、労働運動の外に立ち、むしろ「教育された」階級から支持を求める人々であった。しかし当時、社会の根本的な再構築を要求し、単なる政治革命では不十分であると確信していた労働階級のところは、自らを共産主義者であると称していた。それはまだ未熟で本能的で、しばしばやや粗野な共産主義であった。しかし、それは十分な力を持っていた。ユートピアを夢見る共産主義の二つの体系を生み出すことになったのである。フランスではカベーのイカリア島の共産主義者、そしてドイツではヴァイトリングのものである。1847年の社会主義は資本家階級の運動を示し、共産主義は労働階級の運動を示していた。少なくとも、大陸では社会主義はかなり立派であり、共産主義は全くその逆であった。そして「労働者の解放は労働階級自身の任務である」という我々の意見が早いところから明らかであったので、どちらの名前を選ぶかについては迷う余地はなかった。そして我々にとって、それを拒絶することなんて考えも及ばなかったのである。

 

「万国の労働者よ、団結せよ!」と呼びかけると、我々の声に応えた者はほんの少数であった。それは42年前、初めてのパリ革命の前夜であり、労働階級が自らのニーズを持って出てきた時である。しかしその後、1864年9月28日、ほとんどの西ヨーロッパの諸国の労働者が栄光のある国際労働者協会に手を結んだ。確かに、国際労働者協会自体は僅(わず)か9年しか続かなかった。しかし、それによって創られた世界の労働階級の永遠の結束は今も生き続け、これほど強くなっている証人はない。何故なら今日、我がこれらの言葉を書いている時、ヨーロッパとアメリカの労働階級がその戦闘力を見直し初めて結集され、一つの「軍隊」として、一つの「旗」の下に、一つの直ちに目指す「目標」の下に動員されているためである。それは1866年のジュネーブの会議によって宣言された法的に定められた標準的な八時間の労働時間であり、また1889年のパリの労働者会議でも再び宣言されている。そして今日の光景は、万国の資本家と地主の目を開かせるであろう。今日、世界の労働階級が確かに団結していることを。もし、マルクスが今も我のそばにいて、自らの目でこれを見られたら!

 

 

1892年、ポーランド語版

 

新たなポーランド語版の『共産党宣言』が必要とされるようになった事実は、色々な考えを引き起こすものであった。まず第一には、最近ではこの『宣言』がヨーロッパ大陸にとって、大規模の産業が発展するための指標のようになっていることが注目されるべきである。ある国で大規模産業が拡大するにつれて、諸国の労働者達の間で、自分達の労働階級としての立場と自らを支配している階級との関係についての啓蒙(ケイモウ)を求める意見が強くなり、社会主義的運動が広がり、『共産党宣言』への需要が増えるのである。このようにして、労働運動の現状だけでなく、大規模の産業の発展の度合いも、その国の言語で流通している『共産党宣言』のコピーの数によって、かなり正確に測定できる。労働者が自らの地位を知ろうとする欲求は、大規模の産業が広がると共に強まるのであり、その結果、この書の需要も高まるのである。そういうわけで、どの国でも『共産党宣言』がどれだけ配られているかを調べることで、その国の労働運動や産業の発展の状態が分かるというわけなのである。

 

 

1893年、イタリア語版

 

『共産党宣言』の発表は、1848年3月18日、いわばミラノ市とベルリン州での革命の日と重なった。これは、ヨーロッパ大陸の中心に位置する二つの国の武装蜂起であった。一つはヨーロッパ大陸、もう一つは地中海に位置する国々なのである。これら二つの国は、それまで分裂と内部抗争に弱まっており、外国の支配の下に落ちていた。イタリアはオーストリアの皇帝の支配下にあり、ドイツはより間接的つつも、同様に効果的なロシアの皇帝の支配下にあった。1848年3月18日の結果、イタリアとドイツはこの「恥辱」から解放されたのであった。1848年から1871年までの間に、これら二つの偉大な国が再編成され、ある程度だけであったが再び自立したことはカール・マルクスが言った通り、1848年の革命を鎮圧した人々であっても、結局は彼ら自身の意志に反して、その裁判の執行人として働いていたためである。どこの国でも、革命は労働階級の仕事であった。彼らがバリケードを築き、自らの血を払ったのである。パリの労働者だけが、政府の打倒とともに明確な意図で資本主義体制を打倒するつもりであった。しかし、彼ら自身の階級と資本家階級との致命的な対立を自覚していたにもかかわらず、国の経済的進歩もフランスの労働者大衆の知的発展も、まだ社会の再構築を可能にする段階には達していなかった。

 

そういうわけで、革命の成果は最終的に資本家階級によって収穫されたのである。他の国々、すなわちイタリア、ドイツ、そしてオーストリアでは、労働者達は最初から資本家を権力に登用する以外に何もしなかった。しかし、どの国でも資本家への支配は国家の独立なしには不可能であった。したがって1848年革命は、それまで欠けていた諸国の統一と自治をもたらさなければならなかった。イタリア、ドイツ、ハンガリー、そしてポーランドもその後に続くであろう。すなわち、1848年の革命が社会主義革命でなかったとしても、それは既に社会主義革命の道を開き、その土壌を整えたのである。大規模の産業に弾みをつけたことで、この45年間に渡って資本主義体制は、あらゆる国で多数で集中し、強い労働階級を生み出した。これは『共産党宣言』の言葉を借りれば、自らの墓掘り人を育てたことになるのである。

 

各国に自治と統一を取り戻さない限り、労働階級の国際的な結束や、共通の目的に向かっての平和的かつ知的な協力は達成できない。1848年前の政治状況下でイタリア、ハンガリー、ドイツ、ポーランド、そしてロシアの労働者が国際的な運動を取るなんて、想像できるのか!1848年の戦いは無駄ではなかったのである。そして、あの革命の時代から我々を隔てる45年も無駄には過ぎていない。果実は熟してきているのであった。ここで我が願うものは、このイタリア語訳の出版が、本来の出版が国際的な革命のためであったように、イタリアの労働階級の勝利をもたらす兆しとなることである。『共産党宣言』は過去において、資本主義が果たした「革命的な役割」に十分な評価を与えている。最初の資本主義国家はイタリアであった。中世の封建時代の終わりと現代の資本主義の時代の始まりは、巨大な人物、すなわちイタリア人のダンテによって象徴されている。ダンテは中世の最後の詩人であり、現代の最初の詩人でもあったのである。今日も1300年の時と同様に「新たな歴史」の時代が近付いてくる。イタリアは、この新たな労働階級の時代の誕生の時を刻む新たなダンテを我々に与えるのであろうか?