今の時代、世界は「閉鎖」状態にあると言える。空いた「空間」は全部埋まってしまっているのである。例えば、1日に1,000トンの廃棄物を浄化する能力を持つ川があったとして、999トンの汚染物質が廃棄されたとしても、川はイオンや微生物の分解、植物の吸収などの作用によって原始的な水準を維持したまま流れていくものである。この概念は自然の中の「閉鎖」という考え方を体現している。しかし、社会の公益よりも企業の私利私欲を優先する資本主義は、徐々に終焉を迎えつつある。生産された価値を資本に再投資して生産性を拡大する「拡大再生産」の原理は自然、国家、社会、そして人間の精神においてさえ、この「空間」をほぼ根絶してしまった。その結果、世界は闇に包まれ差し迫る第三次世界大戦と人類の終焉の恐怖に取り憑かれている。現存する種の約半数(38%)が絶滅の危機に直面しており、地球環境の危機は、工業化の原動力である化石燃料の枯渇によって悪化している。(石油は2052年までに、ガスは2060年までに、石炭は2088年までに枯渇)

 

世界では毎年22億トン以上の穀物が生産されており、これは全人類を養うことには十分な量なのである。(2012年は224億3,600万トン、2011年は231億4,900万トンが生産されていた!)しかし、これらの穀物の分配は思ったよりも不公正であり、多くの大企業が私益のために値段を操作するために毎年数百万トンを廃棄し、その結果として約10億人以上が飢餓に苦しんでいる。富裕層は見かけの豊かさの中で満足しているように見えるが、実際には疎外感、不安、孤独、ストレス、鬱病(ウツビョウ)、肥満、貪欲などの問題と闘っていて、彼らの心身にかなり悪影響を及ぼしている。国連開発計画(UNDP)によれば、10年間で毎年850億ドルを投資すれば世界のすべての貧困層が基本的な教育、医療、衛生サービスを受けられるようになり、十分な栄養、清潔(セイケツ)な飲料水、女性の適切な産科医療も受けられるようになるという!総額8,500億ドルあれば、10億人の人々が二度と飢えることなんてなく、基本的な医療と教育を受けられるシステムを構築できる!しかし、アメリカだけでも肥満関連の医療費に年間1470億ドルが費やされ、軍事費は毎年1兆7000億ドルを超えている!

 

化石燃料に代わるエネルギー源が開発されたとしても、資本主義を支える拡大再生産の原理は、地球の資源と人間関係の中の「ゆとり」が限界に達しているので、いずれ機能しなくなるはず。社会主義が「世界革命」を提唱しようがしまいが、或いはそんな偉業が不可能な夢と見なされようが、資本主義は必然的に終焉を迎える。革命によって意図的に資本主義を崩壊させなければ、その矛盾はあたかも砂の城が独りでに崩れるように必然的に崩壊に至るであろう。進歩的であれ保守的であれ、地球の滅亡や東日本大震災のような大災害を望む人はいないはず。そういうわけで、地球を破滅へと導いている資本主義の体制を批判的に検証し、代案を模索することが不可欠なのである。資本主義は「協力」よりも「競争」を優先し、社会を洗練された人間関係よりも「所有」の領域として捉え、「バランスと抑制」よりも成長に基づいた倫理的枠組みを作り出している。成長は理想的にはバランスが取れて調和の取れるべきなのであるが、資本主義の成長は無慈悲でバランスを欠いている。人類史上初めて、社会と地域社会は単なる「巨大ショッピングセンター」に成り下がってしまった。

 

新自由主義の登場以来、この国の資本家は金融と信用を操作し、不可解なまでに市場を独占し、非正規雇用やリストラを口実に容赦なく労働者を解雇し、組織的に労働力を排除することによって益々搾取され、人類の大半を極度に圧迫してきた。日本だけでなく、全世界の労働階級の生活は困窮し、その多くが生と死の岐路に立たされている。言い換えれば資本家による過剰な搾取、疎外の深刻化、「制度」による抑圧、他者への排除と暴力、環境破壊と共同体の崩壊、帝国主義による略奪と第三世界への暴力と言った20世紀の矛盾は21世紀に入って、より鮮明になっている。さらに、理性と科学のイデオロギー化、新自由主義体制下での二極化の深刻化、帝国主義の拡大、貪欲、競争心、ストレスの増大、天然資源の枯渇などが、21世紀の社会的矛盾を強めている。その結果、人間は帝国主義と資本主義の奴隷となり、資本主義と新自由主義体制が生み出す商品と欲に縛られ、七時間以上の過酷な労働に耐えてストレス、不安、絶望、疎外感を伴う。それは屡々(シバシバ)、過剰な欲望への耽溺や、他者ー特に「性的少数者」や「少数民族」といった主流ではない諸集団ーへの憎悪と暴力の表明によって吐き出される。こんな社会的矛盾の激化は、極端な行動を激化させるだけである。

 

資本主義は、生産と利潤の最大化のみを目的とした搾取によって繁栄する巨大な怪物であり、際限のない競争の中で絶え間なく拡大再生産を行っている。何故多くのファンタジー作品のラスボスとして「魔王」が登場していたのか、不思議に思ったことはないか?もし、そうであるとしたら、何故魔王は常に「悪」の帝王として描かれるのか?それは恐らく、資本主義が魔王の化身ということが理由とはならないか?資本主義は「搾取と競争」を前提に成り立っている。労働者は技術を基づく「生産手段」とは似て非なるものであり、その支配下に置かれ、労働力を売っているに過ぎない。その結果、人々は長時間の労働にもかかわらず、望むような主体性を欠いている。資本家との関係は「本質的に不平等」なのであり、この競争社会で生き残るためには搾取を前提とした契約に同意せざるを得ない。こうして資本家は、この搾取に基づいて資本を蓄積してくるのである。資本主義がなぜ労働者の搾取の上に成り立つ体制なのか、理解できるであろうか?

 

資本主義は競争を前提にしか維持できない。過去、カール・マルクスが資本家同士の行為を「兄弟が争っているまま」であると描いたように、資本家はあたかも兄弟のように団結して労働者を搾取し、自国の労働力を支配するために国家を抑圧し、さらに市場において互いに大きな利益を確保するために戦争すらも行う。あらゆるものが「一つの商品」として市場で交換されるこの資本主義社会で、上記の通りに人間関係は資本家階級にとって単なる「交換すべき商品」としか見なされない。何よりも価値を優先する社会に蔓延(マンエン)している現象が「商品化」なのである。商品化してしまった人々は、物質主義的な目で身の回りのあらゆるものを眺め、あらゆる人間関係を商業的なものとして認識する。日本社会に蔓延する商品化によって人々は互いに疎外し合うしかなくなる。恋人であれ、友人であれ、先輩、後輩、或いは家族であれ、あらゆる人間関係は人間の思いやりや「絆」という最高の価値に根ざしているにもかかわらず、単なる「交換すべき商品」に還元されてしまう。

 

今の日本を初め、資本家が強い権力を持つ社会において、労働は個人が疎外される決定的な理由となる。本来、労働は対象を生産者に変化させ、新たな価値観を創造し、自分が生きている時間を有意義にしつつ個人が真の自己を実現し、他者に「実践」する行為を具現化させるものである。しかし、資本主義体制下では違う。労働そのものが「疎外の原因」となり、自己を実現するために存在すべきである「労働」は、すればするほど、より深く疎外されてしまう!労働活動からの疎外、労働生産物からの疎外、自己からの疎外、時間からの疎外、機械技術への従属、人間からの疎外が起こる。労働者はただお金を稼ぐために労働するだけである。これを理解できないのであれば最初から読み直すことをお勧めする。労働者は自分の労働力を資本家に売って給料や年俸をもらう。労働者自身が「商品」になるのである。物ではない人間が「商品」になるなんて、おかしな話であると思えないか?だからこそ、労働者は自分が生産した価値を搾取され、労働は搾取の手段になり、労働の過程で命令し支配するものは労働者ではなく資本家である。すなわち、日本での労働は労働者に自己を実現する道具にならず、労働者は真の自己実現、幸福、満足感や達成感を感じることはできない。

 

人間であるものが物ではないにもかかわらず「商品」になることは、馬鹿げているとは思わないのか?そういうわけで、労働者は自ら生産する価値を搾取され、労働は搾取の手段となり、労働過程において指揮し、制御することは労働階級ではなく資本家階級である。こうして、日本における労働は労働者の「自己実現の手段」ではなく、真の自己実現や幸福、満足、達成感を経験できない道となる。労働が続くにつれて不幸の気持ちが増し、不満が蓄積され、何の欲望の充足もない機械的な行為になるだけである。自我を形成するために労働することではないので苦難とストレスに直面し、身体を弱らせ、心を壊す。資本家が生産手段を独占し、労働者が自己実現の手段として労働を行うことは、この資本主義社会では絶対できないので、彼らは自己の労働活動から「疎外」されてしまう。資本主義はその構造的制約により労働者を必然的に搾取し、これらの労働者が生産した商品を売り、過剰生産を推進し、過剰消費を促進する。生産された商品は利潤を生むために消費されなければないため、資本家は広告や様々な手段として労働者の消費欲求を刺激する。

 

今までテレビ、携帯やパソコンで流されてきた質の低い広告がその一例である。資本主義体制の中で、労働者自身が資本主義的存在となり、資本家、国家のガスライティングに巻き込まれて、知らず知らずのうちに生態系の破壊にも参加してしまう。そういうわけで、資本主義体制は本質的に競争を通じて労働者の欲望を育み、彼らを消費の悪魔に堕落させ、自然界をさらに荒廃させ、人間を自我から疎外し、同時に大量の廃棄物を生み出して「ゴミの島」を作ってしまうのである。人類史において「資本主義」という制度は、時の編年史の単なる一頁に過ぎない。資本主義の下での生活様式、態度、そして世界観は決して自然なものではなく、必然的なものでもない。多くの人間がお金に仕え、搾取し、さらには殺害することは資本主義が登場する以前には存在していなかった!新自由主義は屡々病と見なされるが、その原因を欧米の政府と国際金融機関のカルテルによる独占と暴挙、そしてそれによる野蛮な政策と結びつけ、根拠の乏しい診断と処方を試みることは、あたかもリンゴの皮をなめてまずいと言うようなものである。すべての問題の核心は、この日本を支える資本主義という制度にある。

 

そういうわけで、この「共産党宣言」は革命の流れに影響を与えるには遅すぎた。ここで遅すぎたということは、ある意味で当代の政治意識に気付かなかったことを意味する。それでは、マルクスの思想の「前衛的」な性格は何から来るのか?これを執筆したカール・マルクスが単に「共産主義のユートピア」のための社会的、政治的革命を主張したので?それは、マルクスが現実を変革するための原理をイデオロギーによる対立から切り離すことを求める「科学的態度」に固執したためかもしれない。マルクス常にイデオロギーによる操作に対して警戒を怠らなかった。当時の道徳的に革命を訴えた思想家とは異なり、マルクスは大胆かつ見事に、そして簡潔に現代史の結果を記述し、将来の合理的な道を提示した。

 

そうして、『共産党宣言』は革命への情熱と現実の冷静な分析とを融合させた書になった。彼が情熱を落ち着いたまま保ち続けた理由は、彼が取り組んだ問題に由来する。対立するイデオロギーによって歪められたマルクス主義の森林から脱却し、マルクス自身の思想に戻るべき明らかな理由があるとすれば、それは間違いなくこれであろう。マルクスの予言が現実のものとならなかったとしても、この書が依然として価値を持つのであれば、それは彼が何よりも人間解放の問題を徹底的に分析したからに違いない。そういうわけで万が一、資本主義の問題が今も我々の現実に潜んでいて、未来の労働への希望を捨て去ることを拒否し、現実の問題を正確に把握する必要があるのであれば、この書において真の解放者である「カール・マルクス」との出会いを通じて、人間の解放の可能性を真剣に考えるべきであると思われる。『共産党宣言』に教えられた教訓を忘れずにいよう。