僕の、著書の文章が、

様々な受験問題や、試験問題で、使用されることが多くて、

問題が送られてくるけど著者本人が解けない(笑)




受験や試験に使われた文章の1部をご紹介します(^^)



人生を変える「書」―観る愉しみ、真似る愉しみ (NHK出版新書 345)/武田 双雲

¥777
Amazon.co.jp




たとえば、私たちが赤い花を見たとしましょう。

タイプの違うあらゆる波長を含んだ太陽の光を浴びた花びらは、ほとんどのタイプの光を吸収します。その中で唯一吸収されずに反射して目に飛び込んできた波長がたまたま「赤く見える」タイプのものだったというわけです。

つまり、私たちは深く考えずに花びらを「赤い」ととらえているわけですが、赤と感じるまでには、かくもダイナミックな過程があるのです。

しかも、「赤」といっても、無限とも言える多様性があるのですから、その広がりにも感動させられます。

こんなにも素晴らしいダイナミズムが、「花を見る」という行為の中に広がっているということを、私たちはふだん意識することがありません。

しかし、「花が赤い」の先を知ろうとすることが、人生を生き生きと味わい深いものにするのです。もう少し大胆に言えば、その先を知ろうとせずに、どうやって人生に深みを感じることができるのでしょうか。

現代は行き過ぎた「情報化社会」と言われます。あまりにも多くの情報にさらされる環境にいると、「もう、それは知っている」ということになりがちです。

つまり、「花は赤い」の先を知ろうともせずに、「わかったつもり症候群」に陥るために、好奇心は萎み、想像力は衰えていくのです。

ではどうすればいいか。「見る」を「観る」のレイヤーにまで引き上げる。つまり、目の機能を使って、映像として処理するだけに留まらず、さらに脳の違う部位を使って、想像力を広げていくのです。

たとえば、この「赤い花」はどのような進化の過程を経て、こんな素材になったのか。この花は一万年後にはどういう素材に変化していくのか。この素材やフォルムや色合いであることにはどんなメリットがあり、どんなデメリットがあるのか。

人類はこの花とどういう関係を築いてきたのか。この花からもっと得られるものはないか。そういったことを広げていく作業
この「赤い花」はあくまで譬え、一例にすぎません。「観る」という行為の可能性は日常の中にまさに無限に広がっているのです。

私がNTTを辞めて書の道で生きていこうと決めたとき、複数の人からこう忠告されました。
「夢を追いかけるのもいいが、現実を見ろ」
 この言葉からは、〝夢〟と〝現実〟は相容れないものであるという印象を受けます。たしかに、これから無謀な挑戦をしようとしている相手に対しては、必要なアドバイスと言っていいでしょう。

そして、書道家として独立しようとした私の挑戦も、周囲の人の目には無謀なことと映っていたのかもしれません。


 しかし、いまの私は、こう考えています。
「現実を観るからこそ夢はかなう」
 現実というのは、表に現れている実と書きますが、一般的に「現実を見ろ」と言ったときの〝実〟は、「常識」や「慣習」と言い換えてもいいと思います。

つまり、「現実を見ろ」という忠告には、「常識に従え」「慣習を守れ」という意味が含まれているということになります。

 これに対して、私が考える「現実を観る」という言葉の意味は少し違います。ここまで私は、意識して「見る」と「観る」を使い分けてきました。「観る」と書いた場合は、表面だけを目で追うのではなく、その奥にまで意識を傾けるということ。まさしく臨書と同じ発想なのです。


 私たちは、普段いろいろなものを目にしていますが、はたしてどれだけ「観る」ことができているか。情報化社会と言われる仕組みの中で生活しながら、さまざまな知識を吸収したつもりになっているものの、実際には深いところまでたどり着いてはいないのではないかと思うのです。

 パソコンを操作して、欲しい情報がすぐに見つかったとしても、その情報がどのようなプロセスを経て出来上がったものなのか。そこまで考えることなく、得た情報の上辺だけを撫でるように消費しているような気がするのです。

 卑近な例で言えば、「同世代の平均収入」といった情報を見たときに、私たちはどんなことを思うでしょうか。

 単にそのデータに自分自身をあてはめ、喜んでみたり、落ち込んでみたりするだけでは、「現実を観た」ことにはなりません。どういう人たちが、どういう意図で調べたのか。

自分の世代と、他の世代との関係はどうなっているのか。過去のデータと比べて、現在はどのような傾向にあるのか。収入の裏にある心の問題はどうなのか。そういった部分にまで能動的に踏み込み、その情報の中における自分の立ち位置を客観的に把握することが「現実を観る」ということなのだと私は思うのです。


 世の中のスピードがこれほど大急ぎではなかった過去の時代であれば、人間にはもっと哲学の時間、言い換えれば、立ち止まって考える時間がたくさんあったはずです。

平均収入の数字を見て落ち込んだときでも、なぜ自分は悲しいのか、自分の収入が少ない原因は何なのか、他の人が自分よりも稼いでいる理由は何か、いまの自分はどうすればいいのか、等々……。自分自身と向き合いながら、一つの物事をじっくり突き詰める余裕があったと思うのです。

 そういった余裕──つまり、あらゆる角度から物事を能動的に観ることは、誰からの邪魔も、束縛も受けず、自分の意志のままに行き来できる領域であり、人間に等しく許された〝真の自由〟でもあります。







双雲@「書を書く愉しみ」も頻繁に試験に使われていますが、

文章はシンプルなのですが、試験になると緊張するのか、本人が解けない(^^ゞ





「書」を書く愉しみ (光文社新書)/武田 双雲

¥735
Amazon.co.jp