めくらやなぎと眠る女と現在の世界について | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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 前回までの記事で映画「めくらやなぎと眠る女」について書いてきました。

 この作品はフランスの監督による映画で、東京の住宅地の町並みはどこか、同じヨーロッパ人監督が都内を描いた「パーフェクト・デイズ」にも通じる物がありました。

 現在オリンピックが開催されているフランスと言う国が持つ、あの開会式で観られた批判精神が追認できるという意味でも、いま観るべきタイムリーな映画だと言えるでしょう。

 タイムリーなのはそこだけではありません。

 この映画では、半透明に描かれる「その他大勢」の人々や主人公の一人である小村のように、自分が住む社会で現実に起きている災害に無関心で、他人の痛みに寄り添うおうとしない人々が問題視されています。

 タイトルにある「めくらやなぎ」というのは架空の植物で、その根は地下へと深く育ってゆくとされています。

 村上春樹はこの植物は人々が吐き出す悪い思いを吸って育ち、その根は悪意を地下深くに運ぶと語っています。

 その地下深くには、みみずくんと呼ばれる巨大な怪物が居ます。

 この映画の原作は、村上春樹作品の1カテゴリーにある「現実インスパイアもの」です。

 その一作目となる「アンダーグランド」は地下鉄サリン事件に衝撃を受けて関係者にインタビューをし、それをモチーフに書かれた物となります。

 地下鉄サリン事件を知った時、春樹氏は「これはやみくろだ」と思ったそうです。

 やみくろとは彼の小説に登場する、地下に巣食う悪意の存在です。

 めくらやなぎの根にはそこに通じる構造があるように思われます。

 この悪意に当てられたみみずくんは大きな怒り(すなわち悪意)を発して大地震を起こすのですが、物語の最初、片桐が登場するシーンでは彼が乗っている電車がみみずくんのイメージに重ね合わされています。

 これによって、人々の悪意と地震とのつながりが描かれている訳です。

 もちろん、人間が悪意を持つと災害が起きるなどと言うシャーマニズムは存在しません。

 しかし、恒常的に人の世に悪意が積もり続けることで社会が悪しき物へとなってゆき、その結果災害などの形で人間の善性が試される事態になったときに、世の名あの悪や無関心がより多くの被害に直結するということは間違いがないでしょう。

 この映画では、そのような災害に直面して人間性をあぶりだされた人々が、いわばあちら側とこちら側のように分断される姿が描かれます。

 小村はあちら側に。彼の妻と片桐はこちら側に。

 これを読んでいる皆さんはすでに、今年の一月に能登で震災が起き、それに無関心な現地の知事とこの国の中枢がそれを見捨てたことを知っています。

 つまり、我々はいまこの瞬間も、上述した事態に直面している訳です。

 その意味でまさしく、この映画はいまこの国の国民が観るべき映画だと言ってよいでしょう。

 作中で片桐と同じくみみずくんの姿に包まれた列車に乗っていた「その他大勢」の半透明の人達と同じく、多くの人々が現実世界への対処にあたってまったく存在していないに等しい幽霊の如きものとなってしまっている。

 要するに、本当に生きていないのでしょう。

 自国においてこのありさまなのですから、より大きな国際社会においても同じことになるのも必然です。

 イスラエルにおける人類史最大レベルのジェノサイドに対して、我が国民は圧倒的に無関心です。

 政府が彼らの虐殺に加担していることにも無関心ですし、マクドナルドやスターバックスと言った有名企業がイスラエル軍の軍人行動をバックアップしていることにも無関心です。

 彼らが支払った金額がそのままパレスチナの人々を焼き殺すミサイルの代金になると言うのに。

 韓国では、高名なアイドルやアーティストたちがこのことについて言及し、ファンたちの前で自分たちはイスラエル支援企業で物は買わないということを発言しています。

 彼らは決して、無関心な半透明の人々であることをよしとしない。

「親切で優しいけれど中身がない」これが彼の妻による小村への評価です。

 であるがゆえに、彼女は小村を捨て去りました。

 具体的には、他人の痛みを自分の物として感じる感性に欠けているということだと言い換えても構わないでしょう。

 自分のことしか考えられない。

 パリ五輪では、柔道の選手がイスラエル選手とは試合はしないといってボイコットをして処分を受けました。

 もしもオリンピックが本当に世界的な平和の祭典だと言うのなら、まさにそのような反戦の意図によるボイコットの姿勢を全世界に表明することにこそ、オリンピックの存在価値があるのではないでしょうか。

 しかし、ことは当然単純ではありません。

 まさにいま、長崎では例年行われている原爆投下の日のセレモニーに、イスラエルの参加を拒むと言う自治体のボイコットが行われています。

 これによって、アメリカ、イギリスはもとより、カナダ、イタリア、そしてフランスまでが参加を拒否すると言う事態が起きています。

 イスラエルよりの連帯を示している訳です。

 それくらいに、彼らは中東における白人種の支配に依存している。

 結局植民地時代の延長なのです。

 いま名前を出したイギリスでは、今月起きた犯罪において「犯人はアラブ人だ」というデマを極右のネトウヨが流して、結果、現在では全土で難民や有色人種を無差別に攻撃し、図書館を焼くような暴動が広がっています。

 図書館を燃やすと言う行動が、結局は彼らが反知性主義者なのだという表明になっているように思えてしかたありません。

 それにしてもどうして、元々あったアラブ人へのレイシズムが拡大して、非中東系のアジア人への暴力にまで広がっているのでしょうか。

 要するに、イスラエルの問題と同根であるのだと類推せざるを得ないところです。

「そろそろ有色人種の奴等を痛めつけて、誰が主人なのかをもう一度思い知らせてやらないといけないな」ということでしょう。

 しかしこの絶望的な事態では、まったく想像をしていなかったことも起きています。

 まずはイギリスの首相が「いま暴動に加担している人間は全員極右だ。私たちはそれを許さない」と発言したことです。

 これは政府が率先して愚民化を促し、極右化させて支配下においている日本においては不可能なことでしょう。

 警官たちも日本とは違って難民や有色人種を守るための防衛線を開いているのですが、なにせ圧倒的に人数の差が埋めがたく、逮捕者はいまだに全土で400名程度でしかありません。

 逮捕することも連行することも、収監することも難しいくらいの衆寡敵さずの状態なのです。

 その状態の中で、立ち上がったのが極右ではない英国の市民たちです。

 彼らはこの暴動の前線に立って、暴徒と真っ向から対決をしています。

 自分たちが正しいと思うことを行うために、ある種のシヴィル・ウォー(内戦)を行っているのです。

 恐らくは、これはあのパリ五輪の開会式が影響もしているのでしょう。

 マリー・アントワネットの断頭刑を表現したセレモニーは議論をかもしましたが、これはつまり、市民が自分の意見のために間違った意見と闘うことで民主制は保持がされるのだ、という前提がゆきわたっているからのことでしょう。

 彼らは、常に自分たちで自分たちを鍛えて備え、闘って確保しないと自由とは獲得が出来ない物であることを知っているのです。

 もし、権威主義国である日本の国民なら、町内の通りで暴動が起きているならば、家に籠って関わらないようにすることでしょう。

 しかし、民主主義国の市民と言うのは自らの手で暴動を鎮圧し、放火された炎を鎮火するという物なのです。

 自分たちの社会ですから。それが当然の当事者感覚です。

 暴徒たちは、日本の多くの大衆と同じで、市民社会から落ちこぼれた人々でしょう。

 だから他責に出て、デマに流されて、まったく無意味な災害を引き起こしてしまう。人々の悪意で怒り狂うみみずくんのように。

 対して、自覚を持った市民たちはそれに対して自ら対立をするのです。

 この市民たちは、次のようなコールを暴徒たちに投げつけていると報道されています。

「自分たちはこの国のマジョリティだ。お前らはマイノリティだ。お前らは一体何者なんだ?」  

 何者にもなれなかった、惨め(poor)で愚かな大衆たち。

 それはつまり、みみずくんに取り込まれた電車に乗っていた、半透明の人々だと言うことが出来るでしょう。 

 このように、この映画はまさにいま、この夏に我々が観るべき作品です。