そんな一族に女子として生まれた李氏の女性は、第二次性徴期になるとみんなレッサーパンダになってしまいます。
作中の表現では、レッサーパンダになると体臭がきつくなるという妙にリアルな物があるのですが、それに性欲に目覚めるという描写があります。
そして、毛むくじゃらになるのですよ。
つまり、そういうことなんです。
監督がらんまをモチーフにしていると書きましたが、らんまに出てくる早乙女親子というのは、パンダに変身するということと、女になるという呪いにかけられていましたね。
これ、そういうことなんです。
まだ子供で優等生のままだと思っていたメイメイは、パンダになって女になってしまったのです。
ただなりっぱなしであるということではなくて、瞑想をして呼吸を整えて、精神の安定を獲得すると人間に戻れます。ただ、パンダ人間の聖痕として髪だけは赤茶色なのですが。
ですので、かろうじて社会生活が送れなくはないのですが、一度精神が高揚して平常心を失うと、耳が伸び尻尾が生えてレッサーパンダになってしまいます。
まさに早乙女親子ばりに困った人生を送らなければならない(まさに悲劇! というべきでしたか)。
そこで、李氏の一族では道教の儀式を行って、内なるパンダを封印するというイニシエーションを行うのですね。
非常にシンボリックなのですが、赤い月の日にこの儀式を行うのです。
メイメイにパンダが訪れたということで、李氏一族からお祖母様はじめとして年長のおばさんたちが訪れて、道士を招いてこの儀式を行う手はずが整えられます。
しかし、ここでパンダ化と並行してもう一つ事件が起きます。
ここまでは神話学的、文化人類学的なお話をしていたのですが、もう一つの事件とは社会学的な物となります。
というのは、ヒロインのメイメイはものすごい優等生なのですね。
成績は全部A+で、政治への関心が高く社会活動に意識があり、確実にそのままいけば優良な市民として民主主義社会を支えようとするような、理想的な市民の卵として育てられています。
そう、これ、母親の教育のたまものなのですね。
しかし、作中ではパンダ事件と並行して、メイメイが自分が信じてきた価値観は実は親から刷り込まれたものであって、本来の自分自身での精査が行われていないとい気づきが描かれます。
結果彼女は、表層の問題をただ解決するのではなくて、本質的な問題を見出してそこに向かい合おうという課題を発見します。
ここで、社会学の要素が出たところで先程の儀式の話に繋がります。
神話学的に言う通過儀礼の儀式とは何かといいますと、これ、それまでは安全で安心で幻想の中に生きてきた子供を、社会化して一人前の大人にするという儀式なのですね。
ライオンを一人で倒すとかバンジージャンプとか、あるいは割礼、ないし性器の切除というのが一般的に知られているところです。
その意図はどこにあるかといいますと、これ、母性との分断なのですよ。
子供の時代は、母親との同一性の上に世界が成り立っています。
しかし、そうじゃないぞ、本当はお前一人で生きていくんだからな、現実の世界をこれから直視して自分で生きていくんだぞ、というのが通過儀礼です。
これは心理学的な効果のある物ですので、心理学では母親との分離が出来ていないことがすべての精神病の原因だとします。
メイメイは自分自身の恐るべき明晰さと抽象概念による本質看取能力で、このパンダ問題が自分の社会化の問題だということを見抜いてしまうんですね。
つづく