私はテレビを見ないので知らない方なのですが、有名らしいジャーナリストの方のお話をラジオで聴きました。
この方は元々私立学校の非常勤講師だったそうなのですが、なにか面白いことをしたいと転職雑誌を見ていたところ、国営放送のラジオ番組に関わる仕事の求人を見つけたそうなのですね。
倍率500倍の難関面接だったそうなのですが、なんと月給が四万円。
そこで合格者の方が降りてしまって、繰り上げで2位だったこの方が通ったそうです。
元々非常勤講師で掛け持ちができたので、四万円でも大丈夫だったのですね。
そうしてついたお仕事が、ラジオのレポーターだったそうです。
これをしていて気がついたことというのが、今回のトピックの中核です。
というのもこの方、ラジオでまったく何も知らない聴視者に状況を伝えるという仕事をしているうちに、学校の先生としての自分のやり方が間違っていると思ったというのですね。
学校では、授業とはこういう物だ、教科書にそう書いてあるから、という理由だけで、決まったことをただ順番に話してゆくのですが、それと同じことをラジオでやったらリスナーにはなにも伝わらないということに気がついたのだそうです。
教育の構造的欺瞞に気がついてしまった。
この方の表現を借りるなら「教科書にこう書いてあるからね。私は言ったからね。じゃ、あとは各自で」というような授業って、まったく何も伝えていない。
これなんです。
正直、私はホグワーツに入って最初の解剖学の授業でちょっと物凄く怒ってしまったことがあります。
もちろん、態度には出さずにこらえていたのですが、その部分がまさにこれなんですね。
「教科書にこう書いてあるからね、それ言ったからね、あとは各自で」というのは、全然授業になってないと思って激昂した記憶があります。
もちろん、それは先生が悪いのではありません。
先生方だってこういう教育の中で育ってきて、教育ってそういうものだと思っているのでしょうし、その前提で、とくに職業訓練校というのは成り立っているのでしょう。
ファースト・フード店のマニュアルと同じです。
しかし、これは何も伝えない教育です。
それがまかり通っていることに私は怒りを感じたのですね。
戦後教育、私がいつも言うところの愚民化教育への怒りです。
私が講師という職を選んで人に物を教えることを選択したのには、このような教育制度への抗議の姿勢が存在します。
もっともちゃんと人に伝えるということをしたかったのです。
しかし。
実は、大人になるまでそうして愚民化教育でしつけられて来た人には、今度はこの方法が帰って混乱を招くということがあります。
完全に脳みそがそのようにしつけられてしまっているので、理解して考えて自分に反映するというステップを内面に持ち合わせて居ないのですね。
そこで、きちんと話すほどに「話は面白いのだけど何も覚えていない」とか「言われたことがわからない」「どうしていいのかわからない」「結果やらない」という人達が出てきてしまいます。
出来る人とできない人の格差が広がるのですね。
もちろん、そこを越えて学べば誰でも出来る人になるのだと私は信じています。
しかし、大人になるまでにその準備、訓練をしてこなかった人は急に大人として扱われてしまうと何をしていいのかわからなくなってしまう。
マニュアル教育が本来テーマとしていた、誰でも画一的にする、ということの威力がここに垣間見えます。
そして、その結果、個を確立できなくなり、何者にもなれなくなるという甘い毒の罠の威力を痛感させられます。
離乳食で育って柔らかい物ばかり与えられていると、顎が鍛えられず、噛む力が付かない。
殴られたらすぐに倒れてしまうし、噛む力が弱いと脳の発達に影響が出るなんて言われています。
戦後愚民化教育の罪深さよ。
彼らは見事に、権力や制度の下でしか生きていけない家畜を作り出すことに成功しました。