さて、少し前までの抗日功夫映画ムーブメントの後、いまでは自由な感覚で楽しくアレンジした、ライトな過去の名作オマージュ作品が多いと言うことを前回は書きました。
今回は、具体的に最近見た作品についてお話ししましょう。
私は南少林拳のマスターなので、どうしても少林寺焼き討ち物を良く見ることになります。
そうやって、中国の人たちの中で中国武術がどのような体感の物なのかを読み取りたいのです。
ただここがオマージュ時代で、南少林とタイトルや粗筋にあるからと言って、本編が全然関係ないというのもある話です。
以前紹介した、アヘン中毒から人々を立ち直らせると言う粗筋の映画もそれでした。
南拳と書かれているけれど、全然南拳とか関係ない。どころか、南拳なんて武術は存在しない。
存在しない武術の架空の「実在の達人」を描いているのです。実に功夫映画らしい。
この自由さが最近の功夫映画にはとても闊達です。
黄飛鴻先生を主人公にした作品でも、清朝時代の学校でテストに落第した学生黄飛鴻少年が主人公のドタバタ学園コメディ作品もありました。
また逆に、当時の武侠社会を現代的な黒社会として描いて、男たちの挽歌のようなタッチで、ギャング・スターとしの黄飛鴻を描いた作品もありました。
この間観たのは少林寺焼き討ち物で、洪拳の仮託上の開祖、洪熙官先生を描いた作品でした。
冒頭で少林寺の裏切り者の手引きによる焼き討ちがあり、師匠の至善法師が死んでしまいます。
もちろん、この裏切り者というのはお馴染み白眉道人の役どころなのですが、これをストレートに白眉として描く作品は意外に少ない。
定番好きとしてはもったいないと感じるところです。
白眉の役どころは名前は変わっているのですが、後に不死身で攻撃が利かない肉体を持っている敵として立ちはだかったりと、完全にかつての白眉のオマージュとなっています。
至善法師から少林の衣鉢を託された洪熙官と弟分の方世玉は逃避行のさすらいに出ることになります。
この方世玉、かつてのリー・リンチェイの当たり役でもありました。
少林寺のやんちゃ小僧でいたずらばかりしている、功夫映画の一休さんのようなキャラクターです。
思えばジャッキー・チェンの若い頃の映画「拳精」での役柄も、いたずらばかりしている在家弟子で、方世玉の色合いが感じられます。
さてこの兄弟分二人、旅に出てからどうなるかというと、お医者となって生活を立てます。
洪熙官が編み出した洪拳の後継者、黄飛鴻先生は宝芝林と言う有名な病院を開いていて、漢方薬で知られています。
対して、この映画での洪熙官は鍼医者です。
腕が良いので患者さんが列をなすほどの名鍼医として名を挙げます。
ここなのですよ。
日本の文化では、二つのルートから奇跡のように武術がスポイルされています。
一つはもっとも大きな仏教の伝播ルートからです。
仏教は日本の文化の中心になるほど広まった物ですが、その内容からは読経などの一部を除いて物凄く沢山の物がそがれました。
少林武術やヨガもその代表です。
おそらく、遣隋使や遣唐使で言った僧たちは形のある書を求めるので忙しくて、自分の身に教えを刻み込む行があまりできなかったのではないでしょうか。
こうして、身体哲学の行は日本仏教から失われました。
もう一つの失伝は、医術からです。
日本には仏教同様、中国から医術が伝わりました。
按摩や鍼、灸や本草(漢方薬)などが伝わりましたが、やはり医術の基礎である気功と武術が伝わりませんでした。
おそらくは、書面で伝わったために実技が伴わなかったからでしょう。
中国では、医者と言うのは気功をする人です。
そして気功をする人というのは、武術家です。
日中国交が回復された時に、中国武術家が驚いたのは、日本武道家が医者ではないということだったそうです。
ですので、本邦では骨接ぎでも鍼灸でも見失われているのですが、本来お医者とは自分自身が修行をして身体をよく使い、知っている人間のことです。
この映画では、そのことが明確に描かれています。
作中、洪熙官はその点穴の角度から不死身の防御力を持つジェネリック白眉道人を倒すに至ります。
この伝統中医の世界では当たり前となっている常識が日本ではまったく伝わっていないところが、私にはとても寂しく思われます。
なんにつけ、とかくこの国では文化のレベルが逐一低い。