「強さのイメージ」を段階であると言うことを書いてきましたが、ここで軍人のフェイズが残りました。
この、軍人の段階と言うと、近代化以前の各国ではこれがある種の権利であるとされていたことが重要になってきます。
軍に入り兵士になるというのは、人が一人前になるための権利でした。
以前に書いた「ラブクラフト・カントリー」の主人公アティカスもそういう経歴の人物でしたし、いまだにアメリカでは少年犯罪で逮捕された人は司法取引で入隊して人生をロンダリングするというコースがあります。
近代国家ではこの制度が平民間に広く広まっているところが多く、明治日本では身分の高い物は警官になるが、食えない次男坊三男坊は兵隊に行けば飯が食える、というのが常識でした。
世界には、徴兵制がある国も多く、この「軍人」と言う身分が段階の一つであるということは納得しやすい論ではないかと思われます。
この、身分という概念は、階級社会の者であることは当然です。
しかし、現在のこの国ではこれが不思議なことになっています。
階級社会ではないと言う体裁で近代化を始めた物の、実際には政権は幕末からの既得権益家系が独占し、目に見えない階級制の支配構造が骨子として成立したまま、不況後は明確な経済格差が分断を招いています。
つまり、現実的に実に強固な階級制が敷かれている。
この、現実的に、というところがポイントで、目に見えない、制度化されていない現実であるために、乗り越えるのが難しい。
階級間がすべてガラスの天井で区切られています。
結果、この国の人間の大半は、どう生きたところで「何物にもなれない」。
何物でもない、ただの員数として生きて死ぬことになります。
つまり、オルテガ・イ・ガセット先生が言う産業化社会における「大衆」です。
大多数の人間が、ただの産業の歯車として「その他大勢」の扱いとして生きることになります。
この何物にもなれないということが、叶えがたい承認欲求の肥大させて、精神疾患や犯罪の元になっている気もします。
それ未満の処では「強さのイメージ」という実体のない物を求めるモチベーション足りえているのではないでしょうか。
ですのであえて、目に見えない階級に拘束された大衆社会に、せめて肉体面でだけでもあえてトレーニー、格闘家、軍、などの区分を「段階」として提示することで、ステップアップの基準として観なそうというのが今回の思考実験でした。
そのようにしてカーストを可視化したところで、初めて物差しを手に入れることが出来て、それで自分を計ることが可能となるのではないでしょうか。
そして、そこから自由を求める処に、アジアの伝統的な練功の段階があります。
ヨガや瞑想、中国武術などで、自分自身の肉体という束縛から離れることを試みることが可能です。
私自身、格闘家、トレーニー、ミリタリーという経緯を経て、いまは伝統武術の段階にあります。
これらをすべて経て、かつ伝統武術が最も高い位置にあると言う伝統武術家は恐らく、徴兵制の無いこの国にはほとんどいないことでしょう。
一体一での勝敗、個人での記録、実際的な有用性という価値観を越えて、伝統武術が求める精神の自由と安寧の段階がある。
私は確固たる信念としてそう思い、学び続け、指導をしています。