抽象すると言うこと | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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 私の好きなジェームス・ガン監督の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3」を観てまいりました。

 今回のお話では、2の最後で製造されていた最強の超人、アダム・ウォーロックが襲来してくるのですが、この背景には宇宙中で知的生命体を進化させて諸問題を解決させようとしている存在という物があるのですね。

 MCUのシリーズでは、宇宙はすでに人口過多で崩壊の危機を目前にしており、それを解決するために過去最大のヴィランであるサノスがあらゆる生命体の半数を消滅させるという人口調整が行われました。

 しかし、このある種の「解決策」に対してアヴェンジャーズの面々が人権に基づいた措置を行って解決に運んだ結果、消滅していた半数は戻ってきて、いまなお前提となっていた問題は先送りになったままとなっています。

 おそらく、そういった先送りになっている問題に対してこの「進化を促進させる存在」はまた解決策を求めているのでしょうが、生物実験を行っては結果が芳しくないと廃棄をするという姿勢が好感度が悪いということでスーパー・ヴィランとして描かれています。

 しかしそれ、いまこうして医学や科学の恩恵を受けて快適な生活を送っている私たち自身のことですよね。

 決して他人事だと思うべきではありません。

 そんな今回の映画の中で、そのスーパー・ヴィランはとうとう、最新の実験で最高の知的生命体を生み出すことに成功しました。

 この新しく精製された人類は、子供の姿をしているのですが、宇宙ステーションが故障しても二分で修復させてしまうほどの高い知能を持っています。

 その知能でなら、宇宙の諸問題を解決ができるだろう、と思われたのですが、ここには問題がありました。

 これまでも、同様の状況で解決策が見つかるたびに問題が発見されてヒーローたちが阻止するということが繰り返されてきました。

 かつてアイアンマンが地球上の紛争問題を解決すべく最高の人工知能ウルトロンを作ったときには、これが人類こそが問題の根源だと結論して人類滅亡政策に踏み出すことになりました。

 劇中ではあくまで人類の愚行を学んだことによって人工知能が狂った、ということにされていたのですが、それは果たして狂ったと言えるのかどうか、単にレトリックに過ぎないのではないか、という疑念がぬぐえません。

 宇宙全体を救おうとしたサノスのことに関しては上述しました。

 では。

 今回の問題とはなんだったでしょうか。

 また彼等新人類が大規模な被害者を出すような手段を選択するのかというと、そうではありません。

 もっと根本的な問題であり、それが私には衝撃的でした。

 それは、彼等二分で宇宙ステーションの故障を修復させることができる新人類は、実はただ記憶能力が高いからマニュアルを読めば既存の問題には対応できるというだけであって、考える力は別にないということです。

 単に暗記能力と言う身体能力が高いだけで、本当に賢い訳ではない。

 これ、日本の暗記重視の受験問題と同じ問題です。

 この国は間違いなく、単なる暗記能力を知的能力だと見なす錯誤をしてきたから社会が愚民化して行って先細りになっています。

 これ、西洋哲学では昔から言われていたことで、知識を沢山学ぶことで、うまくいけば化学変化が起きて知性を得ることができる場合がある。とされています。 

 そして知性を磨き続けてゆき、また運よく化学変化が起きれば、知性から理性が出ることがありえる、とされて居ます。

 東洋哲学では、やはり智という物を学ぶことが精神的な賢さに繋がる道だと言われていますが、それは学ぶべき東洋哲学の中に知性や理性が含まれているからです。

 つまり、どちらにおいても賢さという物が自然発生する機序と言うのは明確化されていないのです。

 ですので、今回のスーパー・ヴィランが作り出した新人類はまたしても求めていた物とは程遠く、宇宙を救うという目的には達しない物であることが分かりました。

 単に記憶力のいいだけの生身の人間だったら、AIで充分ですよね。

 ではこの、知性とは一体何でしょうか。

 それは、抽象能力ということではないでしょうか。

 これはいわゆる知能テストにおいて計られる部分もあり、また大脳の構造を生理学で学ぶおりにも「脳の高等な能力の部分」と分類される処です。

 この能力をまっとうに持つのは、人類の4パーセントにすぎないと言ったのはコリン・ウィルソンです。

 4パーセントという数字の根拠は分かりませんが、なんぼなんでもそんなことはないだろう、という気がしますが、いまの日本の社会を見ると実際にそうかもしれないという気もしてきます。

 ツイッターなど観てみればもう4パーセントですらないような気すら……。

 抽象とは、物事のエッセンスを抽出して象を結ぶ力だと解釈しています。

 ツイッターで眺めて私が「この人は物を考える力がないなあ」と思う人の一例を挙げると、例えば昨今の難民問題に対して愚かしい意見を発信している人たちが思い浮かばれます。

 彼らは移民や性的マイノリティに対して人権を尊ぶ必要がないということをしきりに発信します。 

 しかし、これは抽象するなら、基本的人権という物が選択的な物になるということを意味しています。

 選択的ではないから基本的人権なんですよ。

 けれども、そこに選択ということを許させてしまうとどうなるか。

 こうなると、もう移民やマイノリティではなくて、全人類にとって人権が選択的な物になる、ということが起きるわけです。

 だってそれを肯定してしたわけですから。

 なので、基本的人権だけは万民にとって守られなければならないという憲法がある訳ですよね。

 これは忌まわしい犯罪者や邪悪な人格の持ち主に対しても例外ではありません。

 そういった、頼むから一秒でも早く死んでほしいと思うような相手が私にも居ます。

 しかし、そういった人間の人権も厳に守らなければなりません。

 それは、全人類の人権の尊重に繋がっているからです。

 この抽象が出来ないと、こういった考えは理解が出来ないかもしれません。

 そして、このような覚悟を持つということにはものすごく精神的な力が必要になります。

 すなわち、理性です。

 この知性と理性を獲得すると言うことが、現在の我々にはまだ発見されていないのです。