さて、フィリピンの私のグループの方では、盛んに練習が行われているようです。
世界最長のロックダウンが敷かれた国であり、いまもなお感染者は増加中なのですが、だんだん日常生活の再開に向かい始めているようです。
私のところも対面練習を停止してもう半年、あぁ、ペアを組んでのセッション・トレーニング、いいなあなんて思います。
アルニス、またはエスクリマと呼ばれるフィリピン武術では、この対面セッションでの練習を重視する派が多い印象です。
特に、バハドと呼ばれた決闘を目的とした派ではこれが練習の多くに割かれると聞きます。
それらの内、ある有名門派ではこの練習は必ず先生とマンツーマンでのみ行われるそうです。
完全に、中国武術における師匠と弟子の入室練習のノリですね。
そのようにして得られる物が、無意識の反応であると私は思っています。
例えば、ある日本剣術では極意を「後の先」であるとしているというのは有名な話です。
また「一つの太刀」である、という流派もあります。
そのように、その流儀が何を体得することを本質としているか、ということは武術を学ぶ上で非常に重要であると思われます。
私が師父をしている蔡李佛拳では、それは技術面で言うならおそらく、鉄線勁であるでしょうし、それはまた別の言い方をすれば、金鐘罩であり、心意把の勁である、とも言って良いかと思います。
そして、心意把の勁とは何かというなら、渾身拳であり、長勁であり、と言える。
自分が一体何を目標としているのか、というのを理解することは大切です。
あるアルニスでは、上記の無意識の反応を「クエンターダ」と呼ぶそうです。
これは、無意識の反応で相手の攻撃を実際に届く前に予測してその軌道に対して反応をする、ということです。
私が生徒さんと対面セッションを行うとき、向こうが打ってくるのに対してそれを防ぎ、打ち返した時には相手の死角に打ち込むことが出来ることがあります。
相手はそれを防げない。
何度繰り返しても同じことが続くことがあります。
自分は守り、相手の死角に入れる。
これが、自分がマニラでグランド・マスターと同じ練習をすると、まったく同じことをされます。
自分は防がれるけど、相手の攻撃は気づいた時には死角に入っている。
やられて少しするまでそのことが分からない。
入った後で近くが追い付くので「あ……」と気が付くことになります。
私がやられるときに毎回つい漏れる「あぁ……」と言う断末魔の呼気が面白いらしく、現地の子たちに笑われます。
その笑ってた子たちの一人を捕まえて呼んできて「いま、どうなってたか見ろ」とグランド・マスターがその子を相手に相手に同じ練習を見せてくれると、やはりその子も無意識に「あー……」と声が漏れて、二人で目を合わせて笑ったりしていました。
この、気が付かない、というのは死角に入っているからなのですが、あるアルニスの先生は自分の流派を「スーパー・クエンターダ」と名付けたそうです。
直訳すると「予測を超える」。
つまり、クエンターダの能力を得ていることを前提に、そのレベルの剣士に対してそれでも通用する攻防を術理とする。
予測していても避けられない、あるいは予測能力を上回って知覚できない死角から入ってくる。
もちろん、単純な高速やバカ力、常人離れした耐久力などに対してそれらもまた完全にいつでも勝てるものになるとは言い難いのでしょう。
ただ、この予測能力を得ると言うことは「武術」という学問として考えたときにスピードやバカ力と比べて非常に意味が深い物となります。
クエンターダの本質を言い換えるなら、経験則と空間認識能力だと言っても良いかと思います。
これらを我々は「識」と呼びます。
中国武術や気功での言い方ですね。
認識能力を意味します。
この識を挙げることが、大きくところでの武術や気功の目的の一つとなります。
識とは事象から物事の本質をくみ取る力となります。
これによって世界の見え方が変わり、自分の生き方を大きく変えることができます。
世界の見え方が変わると言うことは、それまでとは違う世界に生きられる、ということですからね。
そこにまでつながった時に、武術というのは本当にとても意義深い物になるとしています。
強いだ弱いだ勝つだ負けるだにこだわったり、技や知識をコレクションしていても、そんなことで本質的には人としての存在意義はまったく変わらない。
自らの在り方、生き方に変化が出せたときに、武術という物の本当の価値が得られると思っています。