本物の武術は旅なのだ、という話 4・ケララ | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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気持ちよく生きるためのライフスタイルとしての南派拳法(カンフー)蔡李佛拳とエスクリマ(フィリピン武術)ラプンティ・アルニス・デ・アバニコを横浜、湘南、都内で練習しています。オンライン・レッスン一か月@10000で行っております。
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 前回、パラシュラーマが海に斧を投げたことによってそこにケララ州が出来たという伝承を書きましたが、これ、民俗学的には英雄が海を開拓して州を築いたという解釈が出来ます。

 ケララとはヤシの地という意味だそうですから、何か植物を活用して水をせき止めたりあるいは埋め立てをしたのかもしれない。

 斧は金属の象徴で産鉄を意味していて、その業務周りで結果海が埋め立てられたのかもしれません。

 面白いのは、これが武術の開祖である英雄伝説なのに、象徴が農具(あるいは日用品)であることです。

 剣や槍のような専門の武器ではない。

 また、彼が根絶やしにした仇というのは士族(クシャトリヤ)であって、その武力はバラモンに伝えられました。

 ですので、やはり軍事を専門とした階層のいわば戦争術のような物とは違うということです。

 ここで、インド、中国に共通の、純粋な戦争術と、行を含んだ武術という物は違うのだと言う概念が浮かび上がってくるように思います。

 文化および学問としての武術です。

 この流れで見ると、中国での武術も秦の時代や春秋戦国時代などの戦車や戈の戦いは先史とされていて、中国武術として確立されるのは少林、道家という仏教とタオの思想が土台となってからだということが分かります。

 行と思想があって初めて武術は武術として成立するのです。

 これは、一般に狩猟民族には武術が無いということと共通するかもしれません。

 なぜないかと言うと、闘争時には狩猟技術を人に向けるので武術というカテゴリとして昇華しないからだと思われます。

 農耕というアグリカルチャーの無い社会には武術は成立しえない。

 インド武術の影響を受けて伝播した、マレー武術、フィリピン武術、中国武術、それらがスペインに渡った南米の武術に至るまで、象徴的な武器の多くは農具となります。

 フィリピン武術はスペインの剣士から伝えられた技術を基にはしていますが、実際に行っていたのはいわゆる百姓であり、武器として使われたのは開拓や収穫に使う山刀です。

 ケララ州の武術家による開土伝説には、ヤシの地という意味からも想像される、農具と武術の物語が織り込まれていました。

 そして、この土地に武術が伝わったいわれは、歴史的にはドラヴィダ人の南進によるとされているようです。

 中学生の歴史でやりましたね。

 インドには白人種のアーリア人と、黒人種のドラヴィダ人が居て、アーリア人が攻め込んでドラヴィダ人は南方に逃避していったのです。

 ケララ州にやってきた彼らの武術が、ケララ武術の発生には大きな影響をもたらしたと言います。

 となると、このドラヴィダ人の戦士たちの移住が、パラシュラーマに重ねられて英雄伝説や武術の伝播伝説になったのだと考えると、日本のヤマトタケルの命のような文化英雄伝説として納得がいくことになります。

 しかし、ここで本稿の趣旨としては問題が生じます。

 というのも、このパラシュラーマは、ラーマーヤナのラーマ王子とは別人なのです。

 そう、タイ拳法の開祖伝説とは直結してない!!

 これは困りました。もう少し文化の冒険をしてゆかねば目的地にはたどり着けません。 

                                                                           つづく