解・2 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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気持ちよく生きるためのライフスタイルとしての南派拳法(カンフー)蔡李佛拳とエスクリマ(フィリピン武術)ラプンティ・アルニス・デ・アバニコを横浜、湘南、都内で練習しています。オンライン・レッスン一か月@10000で行っております。
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 お釈迦様の教えで言うなら、執着や強い感情を捨てて、中道に生きることで人は平穏を手に入れられる、ということになります。

 そのための具体的な行として気功や瑜伽があります。

 私自身、それを求めてやってきました。

 結果、心はだいぶんに安らぎを手に入れ、静かな半隠棲の生活を送れていました。

 しかし、その反面、自分の命に空いた風穴、それまでの人生で得た傷口から常に力が漏れ出していて、生命力がとても弱くなっている感じが常に伴っていました。

 私は静かで穏やかで、そして疲弊していました。

 自ら命のボリュームを落として、静かで穏やかに生きていることと、生命力の弱さはどこかでつながっているような気がしていました。

 ここに引っかかったのが、感情のふり幅が狭い人間はダメだという言葉であり、また、ジムで得られた驚きと喜びです。

 実はこの、驚きと喜びという言葉に目を向けさせてくれたのはある映画解説です。

「いだてん」と言う大河ドラマの解説の中で、作中語られていたのは、戦争という加害と自分たちが受けた傷の中にある日本という国が、それらの国や自国の中の良識者からの批判を恐れることなく、自粛や猛省を見せて静かに暮らそうというのではなく、あえて外国諸国と手を取り合い、オリンピックという楽しいお祭りをすることで痛みを慰撫しようということだったと言うのです。

 痛みや苦しみ、過ちに耐えるために、息を整え、静かに生きようとすることは、恐らくは一つのありかただと思います。

 しかし同時に、これはとても危険な試みではありますが、驚きと喜びでこれを回復させようという考え方も解足りえると思うのです。

 そう思わせてくれたのは、謝明徳大師の思想でした。

 謝大師の気功では、五行に対応した五臓にある感情のコントロールをし、その循環を健全化させることで命を十全に生きるということが目的とされています。

 そして、驚きと喜びというのは、それぞれ腎臓と心臓に宿る感情です。

 命を沈めて波立たないように抑制するだけではなく、臓器に宿る感情をあるべく働かせてあるべく昇華するということは、命のボリュームを下げない力強い解ではありませんでしょうか。

 抑え、捨て、鎮めるのではなく、好ましいものに転化させ、使いつくして消化する。

 危険なナイフや殺人の術を、感情を殺し、残酷さを引き出し、冷静に振るって憂鬱さに至る段階の先に、その技術を土台に自分自身に驚きと喜びを与える技術に転化する。

 この二つの構造は極めて似ていませんでしょうか。

 生まれてからずっと使っていた自分の身体、なんの変哲もない模造のナイフと棒、それを使ってそれまで見たことも考えたこともないような複雑怪奇な複雑なことが出来るのを目の当たりにした時、心は驚きと喜びを感じます。

 それを感じているとき、命は生き生きと脈打ってはいないでしょうか。

 これが、私が見つけた解です。

 手に負えないほどの力を得る反面、自分自身が消耗をし続けているような生き方に対する、次の次元での答えです。

 初めからずっと書き続けてきたように、我々が行い、追及しているのは勝ち負けや強い弱い、使える使えないに囚われた術ではありません。

 気持ちよく生きるための行としての武術であり、気功です。

 そしてそれは、驚きや喜びを人生にもたらし、新鮮な感覚で世界を生きるための物ではないかと思われるのです。

 世界の真実を知ること、それを身に着けることは、まさにそういうことであるように思います。

 実用的なただの戦闘の技術が、まったく無用の面白テクニックになったときに、驚きと喜びが訪れます。

 そしてそれらを人は、遊びというのでしょう。実用を離れた遊びの世界です。

 この遊びという字のシンニョウを、流れを意味するサンズイに換えると游という字になります。

 これは、荘子のタオの思想の極意です。

 大きな流れを掴んでそこに乗り、その中で自由に遊ぶという意味です。

 タオの解釈をした時、この答えが目の前に現れました。

 長い長い二十年以上の時間をかけて学び続けてきた結果、私がいたったのはこの場所です。

 この、命を豊かに、自由に活かすためのメソッドを、如何に人に伝えてゆくかと言うことが、私の人生の道行きであるように思います。