「海王伝」の中に、色目人の女海賊が出てきました。
これは南蛮やフランキ人ではなく、シルクロード系の人々です。
胡人、また、イスラムが発生した後は回族として知られるこの人たちは、武術と密接な関係があります。
初期のイスラムは多くがインド人であり、いわゆる回族武術と言う物はインドの武術、すなわちカラリパヤットだと言われています。
パキスタン人の達磨が伝えたとされる少林寺の武術も、同じ系統だと言われます。
この、イスラムや仏教に伴って伝来したインド武術が、海賊海域の武術の土台となっています。
翻って倭寇の歴史を観てみると、原因は騎馬民族の侵攻にあります。
元寇の時に、彼らが日本に攻めてきて、沿岸沿いはひどく荒らされました。
この元寇、元寇と言っても元の人たちはほとんどいません。
すでに侵略された土地から徴発された外国人が中心です。
この侵攻によって、内陸部の民族の人たちもだいぶ海側に来ていた。
その進撃が収まったのち、土地を荒らされて暮らしが立ち行かなくなった沿岸の武士たちが、報復として大陸側に略奪に出たのが倭寇の始まりです。
それが後々まで続き、ついには明の海岸を大々的に襲撃し、北慮南倭(北には騎馬民族、南では倭寇)と言われる国難にまで追い込むことになりました。
その時に、明の沿岸部には多くの胡人、色目人が住んでいたというのです。
というのは、元の時代の支配者であった騎馬民族は前の王朝のマジョリティであった漢民族を信頼せず、重要な国境地帯である海岸沿いには中東や西方から連れてきた異民族を官僚に配置していたというのです。
それらの人々の子孫が明に至っても多く観られたとのことです。
となるとここに、南派武術と言われる物に、四川の峨眉派やチベットの崑崙派が含まれることの由来が見えてきます。
この、異人のコミュニティが南方に分布していたわけですね。
私たちの蔡李佛拳にも、チベット系の白鶴拳の要素が強くみられます。雲南の泰拳が含まれていることもこの辺りの関係もあるような気がしてきます。
そして、それらの民族の中に、回族の武術である長拳も当然含まれていたことは容易に推測されます。
北部においてはこの長拳はすでに少林拳の基礎として普及していました。
だとすると、インド武術は北からの1ルートからのみ中国武術化したわけではないと言えます。
南の武術が接近戦技法の様相を呈していて、現在の東南アジア武術に酷使しているのは、こちらの伝播ルートの過程にあったためという解釈もできます。
この推測に関して、気になる証言が明の時代にあります。
かの有名な武備誌の中で、編者の茅元儀が「我が国の古伝武術はすでに多くが失伝しているので」と書いている部分です。
昔、これはひどく奇妙に感じて引っかかっていました。
茅元儀は明末の人です。その頃に中国武術が一度衰退していて、清末に隆盛期を迎えたということが、どうもうまく理解できなかったのです。
だって、元とか宋とか戦ってばっかりではないですか。
しかし、これが、元に支配されていた時に官職から漢民族が外されがちだったということを考えると納得が出来る気がします。
つまり、中東やチベットなどから来た人々が彼らの武術を持ってきて軍人となっていたということでしょう。
漢民族の武術は、あるいは反乱を企てていると目をつけられないために隠れて練習が行われていたかもしれません。
その中で、南方においては武術のシャッフルが行われた可能性があるのではないでしょうか。
武備誌の文は上の叙述のあと「なので戚継光将軍が海賊たちから盗んで新たな軍用武術を確立した」となってゆきます。
海賊武術の中国武術への流入です。
戚継光将軍は、その確立前に武術家の公募を行い「花拳繍腿を教えた者は死刑」と宣告しています。
おそらくは歴史の中で、なんどか隆盛と没落が繰り返されて、この大倭寇の時の海賊武術の流入以降の流れが現在のハードコアな中国武術につながっているのだと思われます。
アルニスやガビー・ガボーン、ムエタイなどの発生もこの流れを受けて発生したものだと憶測しています。
アユタヤ―王朝のサームレイーであった山田長政も、一説には最後はペルシャとの戦闘に挑んで死亡したと言います。
アジア武術と中東武術のつながりがそこにも垣間見られるわけです。