豊胸狂騒曲 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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気持ちよく生きるためのライフスタイルとしての南派拳法(カンフー)蔡李佛拳とエスクリマ(フィリピン武術)ラプンティ・アルニス・デ・アバニコを横浜、湘南、都内で練習しています。オンライン・レッスン一か月@10000で行っております。
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 以前、このSMACの活動でも一緒にパフォーマンスをしてくれていた相方は、いまはお子さんを生んでお母さんをしながらダンサーとして活動しています。

 お子さんが卒乳をした直後のステージで、彼女は自分の体形に思う処があり、急遽胸にヒアルロン酸注射を打ったとのことでした。 

 この件に関して、ファンの人たちはプロ意識があると称賛する人も多かったのですが、私はそんな簡単に何か言えることだとは思えませんんでした。

 というのも、それまでの彼女は自分がレッスンを付けるクラスでも「胸が無くてもお腹が出ていても、ダンスがセクシーならいいんです」と常に言っていたからです。

 私と一緒にレッスンをしていたクラスでも、女性たちにはそう言っていました。

 それは、ただダンスをするための勇気を引き出すためのリップサービスだったかもしれない。

 実際彼女はポールダンスも訓練して、その時のお腹はバキバキに割れていました。

 でも、私は素直に、彼女のダンスへの姿勢というのはそのような思想の元に行われてるのだろうなあと納得していました。

 しかし、実際に自分の体形の変化に際して取ったのは美容整形。

 これをね、単に、言ってることとやってることが違うという意味で非難したりするのはもっともダメな反応でしょう。

 その時のステージのコンセプトに関する意図があったのかもしれないし、あれから数年経って思想が変わったのかもしれない。

 単に情緒的な反応に落とし込むのはもっとも浅はかなことであるように思います。

 そしてその上で思うのは、人と言うのは言動に責任が伴っているということです。

 私は彼女が責任を持ったうえで思考し、選択したということを疑う余地はまったくありません。

 責任について語るとき、当然人は自分自身のことを振り返らざるをえません。

 私自身の立場を彼女に重ね合わせてみた時に、一体自分はどのくらい責任をもっていることでしょうか。

 平素から、勝ち負けや強い弱いに囚われて武術をするのは間違っていると私は口にしています。なぜなら正統な伝統の継承をしていることこそがまずは最大の基準であるからと思うからです。

 しかし反面、自分はこれまでにもう二十年も格闘技をしてきていて、無数に勝ったり負けたりを繰り返して飽きてから伝統武術にシフトしたので、その頃の強弱の土台をいまだに捨てきっているとはいいがたいかもしれない。

 また、道場の中だけで育ってきた先生方が、実戦だ護身術だといきまいているのを聞くと、お前は一体これまでの人生でどれだけその経験をしてきたんだとバカにしか思えないのは、やはり十年ほど私服保安をしてきて疎むほど場数を踏んで来たからだと言うのも否定できないことです。

 だから、安全なところで実戦を説く人たちをバカかと思う気持ちは、結局自分が経てきた現実からくるもので在る訳で、その上でそれらを否定していても、実際は自分はやってきているという事実に安座をしている傲慢かもしれない。

 それは、また出産経験もなく腹筋もバリバリだった相方が、ダンスに体形は関係ないと言っていたことと同じかもしれない。

「そんなこと言ったってあんたは貯金があるから余裕ぶってそういうことが口先だけで言えんだよ」という非難が出てもおかしくはない。

 実際には起きてなかったことまでに思考を巡らせて己の言動を顧みるところまでして、初めて責任ということが出来るのかもしれない。

 体形に関しても同じことが言えます。

 いくら、伝統の練功で身体を作るだキャリステニクスで身体を作るだ言っても、ウェイトでのトレーニングもしてきた上で言っているので、誰かに「インチキじゃんかよ」と指を差されても仕方ないかもしれません。

 私自身は、伝統のやり方で出している力でウェイトを挙げているのでインチキをしている気はないのですが、状況証拠に対する説明責任は発生するとは理解します。

 そこに関して言えるとしたら、これからのキャリステニクスで、ベンチプレスによる以上の成果を提示するのが大切になってくることでしょう。

 この例に関しては、相方に関して書いたのと同じく、思想の変化という物もあるかもしれない。

 当時の私の状況における伝統的な方法でのトレーニングという課題への答えが、気功や勁でのベンチプレスという物だったのに対して

いまは新たな手法を入手したことで直接的な伝統的練功方法でトレーニングをするという手段を覚えたというシフトがあるとは言えると思います。

 いずれにせよ、責任と言う物を言葉と行動から切り離そうとは思えません。

 失敗することややろうとしたことが叶わなかったりすることは無数にあるとしても、初めから空手形を切って行こうと言うスタンスにはなろうと思わない。

 私の見た目ややっていることが変わったように見えることがあるとしても、本質的にはこの活動は同じ、伝統の練功と思想の物であるということに変わりがくることは無いと思っています。

 変わることのない本質を伝え続けることに、古い物を受け継いで継承してゆくことの意味がある。