客家と中国武術とエスクリマのお話 2・洪門の武術 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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 さて、前回では宋の時代までの客家の人々の騎馬民族への抵抗活動について書きました。

 その後、彼らは散り散りになるのですが、この時の出来事のため、いまだに彼らの話す言語客家話は宗代の中元の言語に近い物なのだそうです。

古代の言葉を話し、漢土を騎馬民族から奪還しようという民族の悲願を持った彼らの移動は、明清になっても続きます。 

 この時代が一番の反乱の時代であり、このころに中国武術がもっとも発展しました。

 また、洪門の成立したのもこのころだと言う説も強く語り継がれています。

 これらを象徴する人物に鄭成功が居ます。私たち海賊武術家にはおなじみのアジアの大英雄です。

 平戸の倭寇の末の娘と、福建の海賊の間に生まれた人物です。

 父親の後を継いで海賊の頭領となり、騎馬民族の清朝が南進してきたときに、明の皇帝を助けて活躍しました。

 鄭成功の組織が洪門だと言う話があります。

 哥老会、三合会、天地会、小刀会、紅幇、青幇など呼び名はいろいろありますが、すべては洪門の組織であると言います。一斉検挙を避けるために呼び名を変えていたという説を目にしました。

 これらはおそらくは倭寇の時代の海賊連合に端を発するのであろうというのが私の見立てです。

 この洪門のルーツにはいろいろな説があります。

 明の始祖、朱元璋の朱が紅という意味であり、紅の発音が洪と同じホンであるという説もあれば、漢と言う字から中と土という部分を取ると洪の字になるから、という説もあります。

 どちらにしても、明からのち、中土を奪われて騎馬民族から奪還しようという意思が現れています。

 これらの創始伝説の中でも面白いのは、明朝最後の皇帝が追い詰められて自決をしようとした折に、子供を身ごもっていた后を逃がしたところ、少林寺の僧たちがこれをかくまったところに始まる、という物です。

 こののち生まれた子供の名前が朱洪英だと言うのもホンが二つ続いて面白いところです。

 このお話で、少林寺と海賊がつながります。

 彼等洪門の姿が伝説の向こうに見えてくるように思います。

 彼等の内部で伝わっている武術のことを、私はよく「洪門武術」と呼びます。

 私が伝えている蔡李佛拳もそうですし(なにせ流派の名前は鴻勝に洪聖に洪勝)、文字通り洪拳と言うのも代表的なところです。

 おもしろいのが、これらの武術門派にはえてして客家拳法が併伝されている、ということです。

 客家拳法の特徴は小橋小馬であり、すったちの姿勢で対して比較的正面を向けて構えるというところです。

 私自身は、龍形拳、白眉拳を修行段階でかじる程度に手ほどきされました。

 これらの拳法は、福建の白鶴拳と非常に近似性の高い物です。

 いわゆる南少林拳法と言うのは、大きく広東系、福建系、そして四川系に分かれるのですが、これを地形的に考えると視線が明らかにおかしい。

 しかし、実は四川は、明末に戦乱によって人が住まない土地となった時期がありました。

 この戦乱を「明末流寇の禍」と言うそうです。

 その意味を調べたところ、どうやら例の大倭寇のこと、および、

それに乗じて起きた客兵の略奪や反乱のことのようなのです。

 大陸の海側から大倭寇連合軍が上陸してきて、地元勢力を飲み込んでどんどん内地に攻め込んできましたが、これに対して官軍が少数民族などの部隊を投入したとは以前にここでも書きました。

 そういった部族の出身地が、中国の西側の国境の方です。

 それら少数民族の兵士たちは、倭寇との戦いから撤退する際に、行きがけの駄賃で反乱や略奪を行っていたと言うのです。

 そのようなことで、四川は「人煙も絶える」と言われる無人の荒野となったことがありました。

 そこにたくさんの客家の人たちが移り住みました。

 どうやら、これが客家拳法が四川派、あるいはそこにある霊峰から峨眉派と言うようになりました。

 これにより、洪門のネットワークで四川、福建、広東がつながって、拳法の混交が行われたようです。

 四川を代表するのが白眉拳、福建と言えば白鶴拳、広東と言えば洪拳ですが、これらをミックスとして非戦闘員の護身術として作られたと思われるのが詠春拳です。

 形としては白眉拳に似ており、門派としては永春白鶴拳の中に含まれて、技の用法や名称は洪拳から来たという、各派の簡便なところをまとめた体系です。

 長年の修行による肉体の改造が必要な発勁の威力を求めず、一般人の身体のままでも身を守れるように作られたことから、婦女子の防身術と言われて尼僧の名前が付けられました。

 とはいえその名前の由来もおそらくは仮託であって、実際は福建省に永春県という地名があり、そこで白鶴拳が生まれたらしいのでつけられたというのが真相だと言う説もあります。

 もちろん私も、修行の形で一応なぞりました。

 鉄線功や鉄砂掌などのような本職武術家の身体を作る練功をするなら必要なくなるため、現在ではまったく行っていませんが。

 一方、客家拳法を専門に行う人は、おそらく広東拳法は行いません。

 それらで行われる弾勁、あるいは驚勁、ないし合わせて驚弾勁と呼ばれる発勁は、いわゆる短勁なのです。

 一瞬に爆発する威力の大きさに定評があります。

 一方、広東南拳ではずっと力が続いている長勁を用います。

 そのため、同時に使うことが非常に相性が悪いのです。

 短勁の見方からすれば長勁はレーザー光線のような物なので消耗が激しく、長勁の側からすれば短勁は威力が短くタイミングが合わないと無効であると感じます。

 そのため、両者の代表格としてもっとも広まった白鶴拳と蔡李佛拳は、それぞれに独自の地位を拓いて東南アジアで隆盛しています。

 おかげで一見まるで関係ない物のように見えるのですが、実はいまでも内側ではこのような関係が維持されています。

 広東拳法側ではいくつかの客家拳法をそれでも併修するのです。

 また、面白いのは蔡李佛拳と同様の内容を持つ西域の拳法に、白鶴拳という物があることです。

 南少林寺が福建省にあったと言われるくらいで、福建名物永春白鶴拳はリーダーとして他派に名前を貸す習慣があったのかもしれません。

 そう考えると、この客家を中心とした洪門の拳法の分布範囲は、チベットから広東にまで至っていたことになりますので、彼らの組織力の大きさがうかがいしれます。

 当時の、各地、民族ごとに言葉も通じない中国で、様々なエリアに分散して居住して同じ客家話が通じることはネットワークとして非常に強みがあったのでしょう。

 なにせ比較的距離の近い広東と福建でさえ言葉が違うのです。間に入れる客家が居るといないでは大違いです。

 正伝を学んだ師父なら、これらの武術の招式に織り込まれた符牒を読むことが出来ます。

 蔡李佛でいうなら、その段階にまで至った師父は通常とはことなる招式を套路の前に行うのですが、これの長いこと長いこと。それだけで一つの套路です。

 その中で、洪拳とのつながりや鶴拳類との関連、先祖の奉られた方向への礼などが手旗信号のように連ねられています。

 これらの武術の伝系が、東都、つまりマニラの中国人居住区にまで至ってラプンティ・アルニスになったのだと思うとその壮大さにため息が出る思いとなります。      

  ラプンティ・アルニスに蔡李佛拳を持ち込んだマスタル・ジョニー・チューテンの師父である劉錦大師の打つ古典の洪拳を見ると、現在の洪拳とはだいぶ違った印象を受けます。

 所々がまるで客家拳のようです。

 さらに、この系統の蔡李佛拳には、どうみても白眉拳にしか見えない套路が伝わって居ます。

 我々の一派と同じです。

 これらの武術を正しく手渡されて、その物語を伝える招式を打つことは、まるで人間が一つの歴史書になったかのうようです。

 我々は、語り継ぎ行くものなのかもしれません。