大倭寇後の武術史私論 2・山東蟷螂拳の発生 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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 蟷螂拳の開祖伝説には、王郎という人物が出てきます。

 どうやらこれは名前ではなくて、王という郎(男性)であったという意味だという説もあります。

 この王郎、なぜ姓名を明らかにしていないかと言うなら、清の時代の反清複明結社の闘士だったからだとも言われています。

 彼は革命の武術を学ぶために少林寺に潜入したのですが、中での腕比べでどうしても勝てない相手がいました。

 その相手を単通と言うと記録にありますが、これもおそらくはあだ名なのでしょう。

 彼は通臂功があり、左右の腕が一つにつながっているようだったそうです。

 これ、つまりは私の論によれば猴拳であり、鶴拳ということになります。

 この単通に勝てなかった王郎は、蟷螂の動きを見てコンビネーションについて悟るところがあり、独自の戦法を編み出します。

 これによって腕比べに勝てるようになった王郎は、多くの少林拳を総合して自流を起こし、蟷螂拳と名付けます。

 この王郎が取り込んだ拳法は以下のように記録されています。

  

太租の長拳、韓通の通背(臂)、鄭恩の纏封、温元の短拳、馬籍の短打、孫恆の猴拳、黄粘(祜)の靠身、
 綿世の面掌、金相の磕手通拳、懐徳の摔捋硬崩、劉興の勾摟採手、譚方の滾漏貫耳、燕青の占

拿(拏)跌法、
 林冲の鴛鴦脚(腿)、孟甦の七勢連拳、崔連の窩裹剖捶(錘)、楊滾の棍採直入、王朗の螳螂

 
 どこかで見たような列記の仕方ですね。
 前回の戚継光将軍が「拳経」に残した戚家軍拳法に似ています。
 もう一度参照してみましょう。
 
 太祖三十二勢長拳、また六歩拳、猴拳、囮拳。
 温家七十二行拳、三十六合鎖、二十四棄探馬、八閃番、十二短
 呂紅八下は剛とはいっても綿張の短打。
 山東の李半天の腿、鷹爪王の拿、千跌張の跌、張伯敬の打、少林寺の棍、青田の棍法、楊氏の鎗法と巴子の拳法と棍法。
 
 太祖の長拳と太祖三十二長拳はおそらく同じものでしょう。
 韓通の通背というのは猴拳と言っていいと思います。また孫家の系統の猴拳というのも入っていますね。
 温元の短拳というのは、温家に伝わる七十二行拳なのではないでしょうか。これも短拳であると言われています。
 綿世の絶掌というのは、綿張の短打の流れなのでは? いまでも浙江の上海では、綿拳という拳法が威明を保っています。
 燕青の占拿というのがありますが、燕青は中国の国民的英雄岳飛の弟子筋であるという話を聞いたことがあります。そのため、鷹爪拳の中には岳飛を祖とみなしている派もあるそうなので、これも共通性があります。
 このように、結構この二つは共通性があるのです。
 そしてだとしたら、武将として名を成していた戚将軍はともかく、自ら少林寺に潜入して修行しなければならない一修行者であった王郎が、どのようにしてこれだけの名門を学べえたのでしょうか。
 おそらく、戚家軍から伝わった流れがあったのではないでしょうか。
 戚家軍武術が山東に伝わったものが簡化されたりアレンジを加えられたりしながら伝わっていたものを、王郎は学んでいたのではないかと思います。
 それらをブラッシュアップするために少林寺に修行に出て、単通との手合わせを経て蟷螂門を拓いたのでしょう。
 開眼した王郎ですが、本懐についてはどうなったでしょう。
 これが、白蓮教の乱を起こした、という話があります。
 白蓮教の乱、1774年、山東地方において王倫という首領の元に八卦教という教団が結成され、清朝に反乱を起こしたと言われています。
 中国では拳匪と言って何度も拳法家による反乱運動が起きているのですが、清朝の物としてはこれは元祖と言ってもいい有名な物です。
 この山東の乱に乗じて同じく四川省でも反乱がおきるのですが、この四川省こそ、実は南派革命拳法のルーツとなる土地の一つでもあるのです。
 これらの地下組織の活動の背後に、もっとも大きな反清複明結社である洪門があったことに疑う余地はありません。
 そしてこの洪門こそ、かつての海賊衆を先祖に持つ海の拳法家たちの組織です。   
 つまり、ここに大倭寇の時代の海賊武術がおよそ二世紀を寝かされて再び体制への反乱活動として動き始めたのです。
 次回は実際の技法を追ってこれをたどってみましょう。