外の宇宙と、自分という宇宙の区別とカンフーとの話です。
外と内の区別がつき、内の中で自我と本能の区別がつくと、自我より沸く迷妄によって術が濁ることを避けられるようになります。
術とはすなわち、自然の法則=タオと自分を調和させることで行われる物です。大宇宙と小宇宙の協調です。
この時に、迷妄があると邪魔になる。
技撃への拘泥も迷妄のように思われます。
内外の協調を主体にせず、他人と優劣を競って勝敗でだけ物を計っていると、どんどん真理から遠ざかってゆきます。
勝負は水物だからです。
単純な話、自分より弱い相手とだけ戦っていればいくらでも勝ち星は増えます。
しかし、それが果たして向上と言えるでしょうか?
自分の生徒とばかり勝負をしている先生も居ます。難しい話です。
また、その勝ち方にしても、正々堂々の地力の太さを用いるのではなく、ダマシ技や相手のデータの研究による弱点を突いて勝ってばかりいては、上手になっているとは言えても功がついているとは言い難い部分があります。
そのような物を俗に喧嘩武術と言います。
以前居たキックボクサーの生徒さんから「喧嘩武術じゃいけないんですか?」と訊かれたことがありました。
その方は私と戦って実力を見込んでくれていたので通ってくれていたのですけど、それは本質ではありません。
喧嘩武術では、 勝てるようにはなるかもしれませんが自分が成長をしているとは言えない。術がついてないのです。
硬い頭や肘膝で相手の弱いところを打ち付けるような物も技の中にはありますが、ではそれと、柔らかい掌や胴体で相手を打ち倒す技を比べたら、どちらがより高度だと言えるでしょうか。
私たちが行っているのは、後者のような内側の勁を用いる物なのです。
もし即物的な効用だけを求めるなら、暗器や打人法などだけ行っていればよいでしょう。
もちろんそのような要素はどの武術にもあり、また専門の門派もあります。
しかし、それは我々の行っている正道の武術とは言わない。
あくまで武術のカテゴリーの中の一部の護身術の類です。
その発想で行くのなら、毒の使用につながって、計略だ政治だ財力だという世界に発展していってしまいます。
ほら、真理から離れた。現世利益の世知辛い世界に帰結してしまったでしょう。
我々が求めているのはまったく逆。
求めている物が「強さ」だとしたらそのような類の物ではありません。外の何にも流されない、自己の存在の強さです。
そのために禅の行によって自らを確立し、外宇宙と対等の個人としての協調を求めてゆきます。
というわけで、無念とは、外の世界に振り回されないということ、だそうです。