前の書き込みの続きのような。あるいはこの数回の流れです。
とりあえず、中国武術では良く力を抜け、とかファンソンだ、などとうるさく言われます。
この段階が一番きつかったと言う先生は非常に多いようです。
うちでは先に勁の出し方を伝えてしまって、それを優先することで結果として拙力を使わなくなるという段階の組み立てをしているのですが、これ、最短すぎるせいかどうも人によってはやり手のエゴがついてこないことがあるようです。
身体は勁を使えるようになっているのですが、それを自我が把握できていない。
だから確認しようとして、わざと出来なくしてしまって仕組みを分解しようと言う我執に囚われてしまうのです。
これは、桜の花がどこから来るのかといって幹を斧でたたき割ってしまったという故事そのものです。
私はよく、この身体知(元伸)による武術を自転車に例えます。
「足を付けるな! こぎ続けろ!」
エゴが事態を把握していなくても、出来ている状態なのだから体に任せて意識を干渉させないでおくことが大事です。
これは水泳でもそうですね。いちいち、自分の足の薬指はどうなっているのだろう、ちょっとまって、自分のフォーム一回上から見せて、などとバカな欲求に駆られて足を下に着けていたら、いつまで経っても25メートル泳げない。
みんな、子供のころにはそうやって物を学んできたのに、大人になってエゴが強くなってそこから離れることに抵抗を感じるようになってしまっているのです。
その、自分自身をがんじがらめにしてしまっている自己への妄執を取り払うことが、少林武術の目的そのものです。動く瞑想です。
人が力むのは、そうやって力を入れていることで自分は頑張っているんだ、という実感を得たいからです。
これがもう我執です。
自分が力を入れていようがいまいがそんなことは第三者的な事実とは関係ない。
その客観性を取ることが大切です。
人と練習するときに、正しい手続きは踏まないけどでもぼくは一生懸命やってるんですよということをアピールしたくてしきりに首を捻ってみせたり間違いだと分かっていることをとりあえず手数だけ出して見せる人もこれと同じ。
そんな自分の弱さを大事に抱え込んでいるような甘えは大変によからぬものです。
その結果、相手にフェイントをかけまくって失手の顔面パンチを入れまくるような心の弱い人は本当にいけません。
逆に言われたとおりにやって、結果がきちんと出来ているなら、自我が把握してないとしても出来てるものは出来ている。
それに対する不安を慰撫するために物事を捻じ曲げてはいけません。甘えてはいけない。
私がやっているようなことは、非常にシンプルで無駄のそぎ落とされた技術です。
その引き算が出来ると言うことが、西洋スポーツや現代格技とは違う、術の世界です。
それをしていながら、格闘技的な力みの安心感を求めていてはまったく先に進めません。
捨てる物を捨てなければならない。
そうやって、うろこをとり、綿を取り、骨を取り、脂を切り取って、非常に「正しい」刺身の作り方、寿司の握り方を伝授しているのです。
それなのに、いきなりそこにマヨネーズをぶっかけるような真似を平気でする人が居る。
そりゃ普段はカジュアルな物食べて暮らしてるけど、いまはそれじゃねーだろ! と言う感じです。
結局ね、こういう人って真面目に練習をしていないんです。
勁は初めは小さいけど、練功を続けているうちに強くなって拙力を上回る。だからファンソンが出来る。
なのに、地道に勁を育てていないから、いつまで経っても隙あれば拙力やらマヨネーズやらおたふくソースやらを使おうとする。
ハニー・ロースト・オニオン・ソースはしまっておけ!
後ろのカラメル・クレームは何に使うつもりだ!!
出来上がるまではどんな味かわからなくても、いちいち段階で形にしようとしてはいけない。
秘伝のレシピを公開してるんだから、よけいなことをせずに正しい手順を踏んで、至るべきときに至るように出来ているんだから。
己の心の弱さに飲まれることなく、きちんとした物を獲得していただきたい物です。
しかし、エゴに凝り固まった現代消費社会の人間にはそう簡単ではないのかもしれない。
だからこそ学ぶ価値があるのでしょう。